「……ヒノエくんって本当に別当だったんだね」
「何をいまさら……ふふ、怖気づいたかい?」
ヒノエに連れられ、熊野にやってきた望美は、邸の大きさに改めてヒノエが別当だということを実感した。
何か甘いものでも調達してくるよと席を立ったヒノエに、一人残された望美は小さくため息をついた。
「本当によかったのかな……」
ヒノエに求められ、その手をとった望美。
もちろん彼が好きだったからだが、ヒノエに選ばれるということは熊野別当の奥方になることでもある。
そんな大事な存在に自分を選んでよいのかと、今更ながらに不安になった。
この世界に来てから望美に与えられた、龍神の神子という肩書き。
それは古くから京の都を見守ってきた龍神の力を行使できる存在で、神子としての望美を欲するものはたくさんいた。
けれど、ヒノエがそうしたものを求め、望美を欲したわけではないことはわかっていた。
龍神の神子という存在は、良くも悪くも人の目を集める。
源平の戦に終止符を打ったものとしても、望美を利用したいと考えるものもいた。
「――熊野に来たことを後悔してるのかい?」
足音なく後ろに立つ人に、望美は振り返るとまっすぐに見上げた。
「ヒノエくんこそ後悔してない?」
「関関たる雎鳩は河の洲にあり、窈窕たる淑女は君子の好逑……ってね。言っただろ? 俺はお前を選ぶよ」
「怨霊がいなくなったこの世界で私が役立つことなんて何もないよ。料理も下手だし」
「料理をする必要はないよ。それに、俺はお前が役立つから欲しいんじゃない」
わかっていた。
それでも確かめてしまうのは、ヒノエがただ一人の存在ではなく、熊野という地を担うものだからだ。
「ヒノエくんにとって一番大切なのは熊野だよね?」
「まあ、そうだね」
「ヒノエくんにとっては必要でも、熊野別当にとって私は本当に必要?」
「……俺の姫君は聡いね」
苦笑を浮かべた姿に、やはり自分という存在は手放しで歓迎されるものではないことを望美は悟った。
「俺はお前を選んだ。最高の姫君であるお前を、ね。後悔なんてあるわけないさ」
「ヒノエくんって砂糖菓子みたい」
甘い言葉をこれでもかというぐらいかけてくれ、そのまま両手を広げて甘えることを許してくれる。
「ヒノエくんが私を選んでくれたのなら……私も後悔しないよ」
たとえこの先の未来が険しいものであっても。
奥方にふさわしくないと罵られる毎日が待っていても。
ヒノエの傍にいたいと、そう決めてこの地を踏んだのだから。
「お前は本当にいい女だね」
その胸の内を読み取ったヒノエは、そっと顔を傾けた。
……と。
「おかしら、おかえりなさいやし!」
「……てめえら」
不躾に部屋へと入り込んできた水軍衆に、ヒノエのこめかみがぴくりと震える。
不穏な空気を察したのだろう、男達は慌てて後ずさった。
「す、すいやせん! 出直してきます!」
「当分この部屋に近寄るんじゃねえ!」
ビリビリと振動する怒鳴り声に、急ぎ立ち去る水軍衆。
そのやり取りを呆然と見守っていた望美は、くすくすと肩を揺らした。
「大切な用だったかもしれないのにいいの?」
「お前以上に大切なものなんてないさ」
「嘘ばっかり」
ヒノエの一番は熊野。
それでも、その次ぐらいには想ってくれていることがわかるから、望美は再度寄せられた唇を、瞳を閉じて受け止めた。
* *
その日から、望美の奥方修行は幕を開けた。
基本的な行儀作法から始まり、別当家のしきたりなど覚えることは山とあり、あっという間に夜が来る日々が続いた。
ヒノエも同じく、望美に手を貸すことで熊野を空けていたため、夜遅くまで仕事に忙殺される状態だった。
そうして一月ほどが過ぎた頃、いつものように奥方修行を終えて部屋へ戻ろうとしていた望美は、屋敷内の慌ただしさに気がついた。
「あの……どうかしたんですか?」
「望美様。それが……」
「ヒノエくんが怪我!?」
「はい。荷降ろしの最中に荷が崩れてきたらしいのです」
「それで? ヒノエくんの怪我はひどいの?」
「詳しいことはまだ……」
「――行ってくる」
「え? あ、お待ちください望美様っ!」
慌てる女房の声を背に、望美は港目指して駆けていく。
(ヒノエくん、無事でいて……!)
今朝、寝坊して会えなかったことがひどく悔やまれた。
「……嬢ちゃん!」
「堪快さん!?」
「話は聞いた。乗りな!」
「はい!」
馬で後を追ってきた堪快の後ろに乗り込むと、その背につかまり港を目指す。
「前別当様! 望美様まで……っ」
「ヒノエくんは? どこ!?」
「別当様なら――」
「俺はここだよ」
望美の剣幕に飲まれるように口を開きかけた水軍衆を遮って、凛とした声が響いた。
「ヒノエ、くん」
「なに望美を連れ出してんだよ、くそオヤジ」
「血相変えて飛び出した嬢ちゃんを届けてやったんだぞ、くそ息子」
いつものように軽口の応酬をし合う二人に、望美は手を伸ばしヒノエに触れるとほおっと息を吐き出した。
「望美?」
「……よかった……」
「心配かけて悪かったね」
荷が崩れてきた時、偶然にも先に下ろしていた荷が壁となってヒノエの身を守った。
だから怪我はしなかったのだと、そう告げるヒノエの衣をきゅっと握る。
望美が平家を滅亡の運命から救ったその後もこの世界に残ったのは、ヒノエの存在故。
彼がいなくては、この世界にいる意味がないのだから。
「よかったな。嬢ちゃん」
「はい。堪快さんもありがとうございました。お礼が遅くなってすみませんでした」
「そんなの、俺の息子を心配してのことだ。礼を言われることなんざねえよ」
わしわしと豪快に頭を撫でる堪快に、眦にたまっていた涙が笑顔に変わる。
「雑に扱うんじゃねえよ。姫君の髪はあんたと違って繊細なんだよ」
「嫁はこんなに可愛いのに、息子はどうしてこうも小憎たらしいんだろうな」
「あんたの息子だからだろ」
飛び交う言葉に、しかし互いの目は優しく望美はふわりと微笑む。
「望美、おいで」
手招かれ、荷を解くヒノエを見守る。
程なくして現れたのは、繊細に織り込まれたレース。
「これ……!」
「前にお前が言ってたのはこれだろ?」
「この時代にもあるなんてびっくりしたよ」
「そう出回ってるものじゃないからね」
「こっちは……ドレス?」
望美が見知っているものとは異なるが、日本の着物とは明らかに違う、袖が長いワンピースのような装束。
「宋の民族衣装だよ。ドレスとは少し違うかな」
レースにワンピース。
それは海を渡って外国と交流を持つ熊野だからこそ手に入れられたもの。
「これで婚儀の準備は揃ったね」
「婚……儀?」
さらりと告げられた言葉にヒノエを見ると、ツ……とつりあがる唇。
「俺と『結婚』してくれるかい?」
頭にのせられたレースが、ふわりと目の前を揺らぐ。
「私と……結婚してください」
「もちろん」
自らも乞うと、掠めるように唇が重なった。
「今日は宴だ。とっとと片して飲むぞ」
「へい!」
にやりと顎をしゃくる湛快に、水軍衆もわらわらと荷降ろしを再開する。
この後、熊野の神々と民に祝福された若き別当夫婦は末永く仲良く、熊野を見守っていった。
そうして続く未来は、賑やかな声と笑顔に満ち溢れるのだった。
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