平家の神子

弁慶6、不穏な影

「ここで何をしている……?」
「知盛殿」

背後からの鋭い問いに、弁慶は微笑みを浮かべながら振り返った。

「すみません、まだここにきて日が浅いものですから、少し迷ってしまいました」
「そんな話が通じるとでも……?」
「信用できませんか?」

遭遇したのは、平家でも名だたる武将である知盛。
それでも弁慶は微笑みを絶やさずに嘘を突き通す。

「知盛? 弁慶さんも……こんなところでどうしたんですか?」
「……チッ」
「知盛殿と話をしていただけですよ」

望美の登場で殺気を解いた知盛は、興醒めしたように身を翻す。

「あ、知盛! ……もう。本当に気まぐれなんだから。ごめんなさい、弁慶さん」
「ふふ、気にしないでください」

穏やかに微笑んでみせると、望美もほっと胸をなでおろす。

「弁慶さんはこんなところでどうしたんですか?」
「お恥ずかしいのですが、水を貰いに出たら道に迷ってしまいました」
「お水ですか? それだったら私が持ってきますよ」
「ありがとうございます」

望美に連れられ与えられた部屋に戻りながら、弁慶はすばやく間取りを頭に叩き込む。

「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」

気をきかせてくれたのだろう、水とは別に茶も運んでくれた望美に礼を言って受け取ると、軽く舌をつけて毒が入っていないことを確認してから飲む。

「……やめたほうがいいですよ」
「え?」
「弁慶さんが何を企んでるのか知りませんけど、あなたが平家に仇なすのなら、私はあなたを切ります」

向けられた瞳は本気で、弁慶は湯呑を置くとふっと微笑んだ。

「……肝に銘じておきますよ」

そうして手を伸ばすと、紫苑の髪を一房手に取る。
己の容姿に女性がどのような感情を抱くのか、弁慶はよく知っていた。
今までも最大限利用してきた。
だから、そっと顔を傾けると、触れる程度の口づけを髪に落とす。

「べ、弁慶さんっ!?」
「すみません。あんまり綺麗だから、触れてみたくなりました」
「だ、だからってキス……っ」
「『きす』?」
「な、なんでもありませんっ!」

望美が時々口にする不思議な言葉に首を傾げると、ぶんぶんと頭が振られた。

「わ、私、用事があるのでいきますね」
「はい。ありがとうございました」

それが弁慶から離れるための口実であろうことを知りながら、あえて追求することはせず微笑むと、望美が逃げるように部屋を出ていく。 急に静かになった室内で、弁慶はつ……と唇をつりあげた。
弁慶が源氏を裏切り平家に寝返ったのは、すべてはただ一つの目的のため。
それを叶えるためならば、親友を裏切ることもいとわない……そう決めて望美の手をとったのだ。

「今はおとなしくしますか」

知盛に見られたのは失敗だった。 ――望美にも。
今、疑われるわけにはいかなかった。
まだ、目的のものがどこにあるのかわからないのだから。
冷めた湯呑を手に取ると、茶で口を潤わせながら目を閉じる。
弁慶の戦いは始まったばかりだった。

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