耳に響く鈴の音。
その音に混じって聞こえたのは、悲しげな少年の声。
「神子……私は消えてしまう……。神子、ごめんなさい……」
詫びる声はあまりにも悲痛で、望美はその声の方に手を伸ばした――瞬間。
「………………ッ!!!」
身を引き裂かれたような喪失。
驚き目を覚ますと、ドタドタと騒がしい足音が廊下に響き渡った。
邸の主・浄海入道こと平清盛が亡くなったのは突然のことだった。
原因不明の熱病に侵され、祈祷の甲斐もなく数日後には亡くなってしまったのだ。
棟梁である清盛の死は、一門に大きな衝撃を与えた。
ひっそりと静まり返った邸に、望美は不安そうに将臣を見上げる。
「私たち、ここにいてもいいのかな?」
清盛の好意に甘え、世話になっていたが、彼が亡き今、平家一門でもない望美たちは、ただの厄介者でしかなかった。
「いつまでも居候ってわけにもいかないよな。町にでも出て仕事を探すか」
「そんなことをする必要はありませんよ」
「経正」
二人の元へと姿を見せた経正は、穏やかに微笑む。
「伯父上亡き後も、あなた方が平家の客人であることは変わりません。それに町は物盗りなどが跋扈し、こちらの世界をよく知らないあなたたちには危険すぎます」
「好意はありがたいが、いつまでも世話になりっぱなしってわけにはいかないからな」
やんわりと辞退する将臣に、経正は優しげな瞳で二人を見つめた。
「病床に伏している時も、伯父上はいつもにあなた方を気にかけていらっしゃいました。自分亡き後もあなた達が困ることのないよう、取り計らうようにと言付かれていました。ですから、そのような遠慮はなさらないで下さい」
生前、亡くなった息子に似ていると、将臣を可愛がってくれた清盛。
彼は病に伏した後、死す前に二人のことを一門の者に頼んでいてくれたのである。
「あなたは本当に重盛殿によく似ておられる…伯父上があなたを愛しく思われるのも、当然なのでしょう」
「………っ」
亡き清盛の深い愛情に、将臣は唇をかみしめ俯いた。
* *
将臣の心情を思い遣り、その場を離れた望美は一人勾欄でぼんやりと月を眺めていた。
まだ付き合いの浅い望美でさえ、清盛が死んでしまったことに心を痛めているのだ。一門のものたちの悲しみはどれほど深いものだろう。
「……十六夜の君?」
「重衝さん」
物静かな足音に振り返れば、月明かりに照らし出された姿は、清盛の五男である重衝。
重衝は優しげな微笑みを浮かべると、そっと望美の隣りへと座った。
「宵闇の中でもあなたの姿は光り輝く……まこと月の姫君なのではありませんか?」
「……違います」
相変わらずの甘言に、望美は頬を赤らめると内心でため息をついた。
(どうしてこの人は、すごいことをさらっと言えちゃうかな……)
望美のいた世界での、平安時代に相当するこの時代。
このような言葉は社交辞令なのだと言われても、現代っ子の望美にはやはり羞恥を誘うもので、何度言われても慣れるということがなかった。
「このような場所にいては、お風邪を召しますよ?」
「うん……ちょっとだけ、外の空気吸いたくて」
気遣う重衝に、望美は寂しげに微笑むと、視線を月に戻す。
「……父の死に御心を痛めてくださっているのですね」
重衝は瞳の奥の悲しみを深めると、同じように月を見上げた。
「……父は私の、平家の誇りでした」
「私にも優しい人、でした」
見知らぬ望美と将臣を受け入れ、邸に住まわせてくれて、自分が死した後のことも、経正に頼んでいてくれた。
生前の清盛の姿が思い出されて、望美の頬を一筋涙が流れる。
「……十六夜の君はお優しいのですね」
優しく涙を拭う重衝に、しかし望美は止めることができなかった。
自分より肉親である重衝の方がずっと辛いはずなのに、彼は人前で望美のように、涙を流すことは出来ないのだろう。
だからきっと、今流れている涙は重衝の代わりなのだと――嗚咽をこぼしながら望美は思った。
* *
ひとしきり重衝の胸の中で泣いた望美は、気恥ずかしそうに顔を上げた。
「……ごめんなさい」
「何を謝られるのですか?」
「だって……重衝さんだって悲しいのに……それに」
望美の涙をたっぷり含んだ重衝の衣に、申し訳なさそうに眉を下げた。
「月の雫は神の甘露。気になさることなどございませんよ」
「でも風邪をひいたら困るし……」
「そうですね……着替えは必要でしょうか」
「あ、だったら私、女房さん呼んで来ます」
そのまま身を翻そうとした望美を、重衝が手を掴み首を振った。
「このような夜更けに起こしてしまっては、女房殿が気の毒です。私なら自分で出来ますので大丈夫ですよ」
「じゃあ、私が手伝います」
「十六夜の君、が?」
「そんなにしちゃったのは私ですし、着替えのお手伝いぐらいなら出来ると思うんです」
とかく貴族というのは、身支度さえ人の手を借り行うということを、この世界に来て知った望美。
着付けは到底無理だったが、脱ぐのを手伝うぐらいはできるだろうと、女房の代わりを買って出たのだ。
そんな彼女に重衝は一瞬考え込むような仕草をするも、すぐに微笑みを返す。
「――それでは、お願いできますか?」
「はい!」
元気に頷いた望美は、重衝が扇の下で歪んだ笑みを浮かべたことに気づかなかった。
* *
重衝の脱いだ衣を受け取ると、衣架へかける。
「明日、女房さんに汚しちゃったこと言っておきますね」
望美がそう振り返ろうとした瞬間、背から突然抱きしめられた。
「重衝さんっ?」
「以前、申し上げたでしょう? 姫を恋うものに課せられる難きこと果たしたならば、どうかその時はお覚悟を――と」
それはこの世界で重衝に初めて会った時、彼が口にした戯言だった。
「あれは冗談……」
「違いますよ」
反転した視界に、気づくと重衝に組み敷かれていた。
「このような夜更けに男の部屋へなど……睦事以外の何をなさると?」
嘲笑めいた響きに、望美は自分の浅はかさを呪う。
華奢に見える重衝の腕は、しかし思いがけない力で望美を固定し離さず。
掠めるように頬に触れた唇に、望美はびくんと身体を震わせた。
「重衝さん……っ! やめてっ!!」
「人は深い悲しみから逃れるために、一時の温もりに縋りたくなるときもあるのですよ」
言外に、今の自分がそうなのだと告げる重衝に、しかし望美が頷けるわけもなく。
頬、瞼、耳と触れる唇に、望美の全身が嫌悪にあわ立った。
悲しみを紛らわせるために、好きでもない相手を抱く。
そのことに、望美の全てが激しく拒絶を示した。
「悲しみに暮れる者同士……痛みを重ね、一時の夢に溺れましょう?」
「こんなふうに逃げたって、悲しいことがなくなるわけじゃないっ! 私はこんな逃げ方は嫌い! 重衝さんはずるいです!」
「ええ……そうですね」
どこか捨て鉢な重衝の虚ろな瞳に、望美は戸惑い彼を見た。
深紫の瞳に浮かぶのは、深い悲しみと、それとは別の――痛み。
「重衝、さん……?」
拒絶の光を緩め、気遣う色を宿した少女に、重衝がふっと口元を歪める。
「毎夜――夢を見るんです。紅蓮に包まれる町の……」
それは二ヶ月前に重衝が行った、南都焼き討ちの光景だった。
「町の全てを……人も、建物も、全てのものを包み、炎は燃え上がり、そして無にしました」
過去形で話す重衝に、望美は彼の心の痛みを感じ取った。
彼の心に傷を残しているもの……それは自らが犯した罪。
ふと抵抗ではない腕の力を感じ拘束を解くと、望美は逃げるでもなく、そっと重衝の頬に触れた。そうして労わるように優しく撫でる。
「苦しくて……痛いんだね」
慈しみに溢れた声に、驚愕に見開かれた重衝の瞳が揺れる。
すうっと流れた雫を指でぬぐうと、望美は優しく微笑んだ。
それは菩薩のように慈しみが溢れていて、重衝は瞳を閉じると、静かに涙をこぼした。
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