平家の神子

32、和議

「よくもおめおめと我の前に姿を見せられたのう」

久方ぶりの対面に、清盛は二人を冷やかに見下ろす。

「伯父上。神子殿は私が……」
「いいんです、経正さん」

庇おうとする経正に首を振ると、望美はまっすぐに清盛を見つめた。

「源氏との和議を受けてください」
「……なぜそれを知っておる」
「長い戦いで平家は疲弊してます。この和議を見逃せば、平家は……滅びます」

不吉な言葉にざわめく人々。
見えない未来に不安を抱いているものは多く、まして龍神の神子である望美が口にした故にそれは先見のように恐れられた。

「我が一門が頼朝如き小僧に負けると? 平家は不死の力を手に入れた。滅びることなどありえぬ!」

今や平家の邸には、生者と同じように怨霊が並び立っていた。だが。

「私がいてもですか?」
「なに?」
「白龍の神子の力は、怨霊を封印するもの。あなたが和議を受け入れてくれないのなら、私は私の力すべてを使っても抗ってみせる」
「!!」

揺るぎない翡翠の瞳に、清盛はぎりっと唇をかむ。
怨霊を生み出す黒龍の逆鱗と反するその力は、清盛をも脅かすものだった。
だから己の内に取り込み、叛意あれば処断しようとしたのだ。

「……よかろう。和議を受けようぞ。だが、その後のことは我の知るところではない」

スッとその姿を消した清盛に、望美はほっと安堵の息を吐く。
和議の道は開けた。
あとはこの和議を成立させるだけだった。

* *

望美がいるのは源氏の使者との対面が行われる福原ではなく生田の陣。 万が一の事態に備えるのは仕方がないとはいえ、望美は祈るような心地で福原の方を見つめていた。

「クッ……自分の奥方を餌にするとは頼朝もいい性格をしている……」

後白河法皇がもちかけたこの和議には、頼朝の正室である政子が名代に立ち、敵地である福原へ出向くことになっていた。 だが戦で負けたわけでもない源氏がわざわざ福原まで赴くのはあまりにも不自然だった。 そこで和議を進めるのと同時に、万が一の時に備えて一ノ谷や生田の防備を固めることにしたのである。
和議が成ればもう平家が追われることはなく、彼らが生き延びる未来を得られる。だが。
高らかに上がった戦を知らせる音。

「和議は成らず、か」
「そのようですね」
「そんな……っ」

せっかく清盛を説得して和議をとり行うことを実現できたのに……!
平家が生き残る唯一の道が崩れたことに、望美の心は打ち砕かれた。

「神子様はどうぞ後ろに」
「……ううん。私も戦うよ」
「その刃、今度は源氏に向けるのか?」
「兄上。神子様を傷つけるようなことを仰るのはお止めください」
「見せてみろよ……お前の本気を」

知盛は望美を振り返ることなく、戦場へと歩いて行った。
生田に現れたのは、源氏の戦奉行・景時だった。
始まった矢合戦は、逆茂木で強固な防備を固めていた平家には効かず、やがて戦は矢合戦から白兵戦へと変化を始めた。 均衡を保った戦いが揺らいだのはある情報。 見ると、一ノ谷から煙があがっていた。

「九郎義経は険しい崖を駆け下りるという奇襲を決行。想定外の攻撃に我が軍は混乱し、兵は散り散りに逃げだしたとのことです」
「忠度殿や有川殿はどうされた?」
「お二方の行方は現在分かっておりません」

一ノ谷は清盛の弟である忠度と、将臣が守っていた。

「義経の逆落とし……か。だけど兄さんもこの可能性は分かっていたはずです」
「忠度殿は有川を不審に思っていたからな。あいつの忠告に耳を貸さなかったのだろう」

知盛の言葉に、今更ながらに平家を離れたことを望美は悔やんだ。
もしも望美が穢れに当てられさえしなければ、将臣が信用を失うこともなかったのだ。

「神子様!?」
「先輩!?」

一ノ谷方面へと駆け出した望美の腕を知盛が掴む。

「今から行っても遅い。……死に行くだけだ」
「そんなの分からないでしょ! 将臣くんを……皆を助けられるかもしれないじゃない!」
「自分の立場を忘れたのか?」

冷静な知盛の言葉に、望美がはっと動きを止める。

「今のお前は裏切り者……そう双方から思われているんだぞ。そんなお前が行って誰を助けられる?」

今、望美がこの場にいるのを知る者は知盛と重衝のみ。
この二人の協力があるからこそ、他の兵の目に触れずにいることが出来たのだ。
唇を噛んで俯いた望美の肩に、そっと重衝が手を置いた。

「有川殿なら大丈夫です。あの方は智将と称えられた重盛兄上によく似ておられる。きっと上手く逃げ延びているでしょう」
「……うん」

重衝の慰めに、望美は小さく頷き顔を上げた。

「引け! 撤退する!」

一ノ谷と生田、双方から攻められては不利。
そう判断すると、知盛は兵に撤退を指示した。

「兄上。殿は私が引き受けます。母上と帝……神子様をお願いします」
「重衝さん!? だったら私も残りま……」
「私は死にに行くわけではありません。後から追いかけますから、どうか神子様は帝をお願いします」
「…………っ」

殿を務めるということは、敵を最後まで食い止めるということ。
それはとても危険な役割だった。

「絶対……ですよ。絶対帰ってくるって」
「ええ。お約束します、神子様」

微笑み、望美の手を取り口づけた重衝。
しかし重衝が追い付くことはなく、敗軍の将として鎌倉に送られたことを後に知るのだった。

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