平家の神子

30、熊野川の怨霊

「気が……留まってる。何かが来る。神子、私の傍を離れないで」
「白龍がこんなに緊張するなんて、用心した方がよさそうね」
「ここまで来て、見てるだけってわけにもいかないだろ。渡れる場所を探すぜ」

増水の理由が怨霊ではないかとの情報を得て川を調べに来た望美達に、突然女の声がふりかかった。

「そこの武士の方! この川を渡るのはおよしになって」
「――なんだって止めるんだよ」
「この川には恐ろしい怨霊が潜んでいるのです……。熊野詣に来た私の夫と舎人たちも、その怨霊に飲み込まれてしまい……」
「川を渡ってる最中に襲われたら、戦えないよね。何か策を考えなきゃならないな~」
「そうですね……。危険だと分かってるのに無茶は出来ない」
「まあ、待てよ」

用心を促す景時と譲に、将臣は目元を袖で覆った女性へと厳しい顔を向けた。

「よ、女房さん。あんたこんなところで残って何しているんだ? 旦那も家来も喰われちまったってのに、何で家に帰らねぇんだよ。川を渡ろうとする連中、皆に忠告しないといけないわけを教えてくれないか」
「あの……それは……その……」
「将臣! 女性にその言い方はないだろう。頼る者をなくして心細いものに咎めるような口を利くな」

庇うように前に出た九郎に、言い淀んでいた女はこれ幸いとばかりに泣きすがった。

「ああ……あなたは優しい方なのですね。そちらの方のような、怖い武士の方ばかりかと思いましたわ……」
「見ろ、将臣。お前のせいで怯えてしまっているじゃないか」
「おいおい、ナイト気取りもいい加減にしてくれよ」
「――九郎」

苛立ちと失望を露わにする九郎に、進み出たリズヴァーンがスッと水面を指差した。

「川面をよく見てみなさい」
「川面ですか?」
「川面に影が映っていない。その女房の姿だけ」
「――本当だ。これはどういう……」

驚く九郎に、女は舌打つと禍々しい正体を露わにした。

「おのれ、鬼め。今一歩で、龍神の神子共を亡き者に出来たものを!」
「本性を出したな。やっちまうぜ!」

蛙の怨霊へと姿を変えた女に、将臣が背中に背負った大刀を抜き構えた。
その後に、九郎も続いて剣を構える。
彼らの戦いを一歩引いて見ていたヒノエは、不意に燃え上がるような熱を宿した額に手をやった。
そこにあるのは、目の前の少女を守る者として選ばれた宝玉。

「君の八葉としての力、見せてもらいますよ」
「……あんたと協力かよ」

交わる気の先を見て顔をしかめた甥に、弁慶は微笑んで気を集中する。
火の煽りを受けひび割れた地面が、怨霊を挟み込んだ。

「めぐれ天の声! 響け地の声! かのものを封ぜよ!」

怨霊が弱ったところですかさず呪文を詠唱すると、怨霊は悔しげな絶叫を響かせ霧散した。
晴れ渡っていく空に、望美はふぅと息を吐くと剣を鞘におさめた。

「どうしてこんなに力を持つ怨霊が生まれたのかな?」
「怨霊が土地を……気脈を汚すから歪みが大きな穢れを生んでる。私が守らなければいけない世界なのに……」
「今の怨霊も平家が怨霊を使って、穢れが広まった影響かもしれませんね」

すっと硬さを帯びた琥珀の瞳に、望美は唇を噛みしめた。
平家一門の存続。
その望み故に、世界が歪められた事実が、重く胸にのしかかる。
平家に縁のある者として複雑な想いを隠せない将臣と望美は、安らぎが戻った川を渡り熊野本宮へと辿り着いたのだった。

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