平家の神子

29、通り雨

南の海沿いの道を通り、勝浦へと辿り着いた一行は、ヒノエに紹介してもらった宿へと身を落ち着けた。
すぐにでも九郎は本宮へと行きたがったが、熊野川の増水は反対側にまで及んでいた。
自然な増水ならば数日で収まるだろうと、宿で川の水が引くのを待ったが、熊野川の氾濫は変わらず、謎の増水の原因を突き止めようと、源氏軍は情報収集へと繰り出し、望美は朔と滞在中の買い出し役を担うことになった。
長期滞在を見越して、朔と手分けして炭などの必需品の買い出しを行っていた望美は、突然の雨に慌てて手近な木の下へと駆けこんだ。
買った灯明の油が無事かを確認して、そっと空を見上げため息をつく。

「朔は大丈夫だったかな……」
「珍客来たる……か」
「え?」

傍らからの声に振り返ると、望美はその場に固まった。

「そう……驚くこともないだろう。この木がお前のものだというのでなければ……な」
「知盛……どうしてこんなところに!?」

目の前にいるのは、つい半年前までは当たり前のように顔を突き合わせていた平知盛だった。

「もしかして……平家も熊野別当に会おうとしているの?」
「神子殿も熊野別当へ会いにいかれるのか? ……源氏と共に」

知盛の言葉に、すっと望美の顔が強張る。
緊迫した空気が支配する場で、知盛は不敵に笑むと、クッと喉を低く鳴らした。

「お前が源氏とは好都合だ」
「えっ?」
「なかなかに……楽しい時間だったぜ。次に会うまで他の奴に……殺されるなよ?」

話している間に止んだ雨に知盛が木の下から出る。
何か言おうとして、だけど何も言えずに後ろ姿を見送った。

 * *

「ご苦労なことだね」

宿の自室で書物をしたためていた弁慶は、後方からの声にゆっくりと振り返った。

「熊野にまで怨霊が現れるとは思いませんでした」
「結界が緩んでいるわけじゃない。――理が崩されてるせいだろ」

神域と呼ばれるここ熊野で怨霊が出没することは、熊野別当であるヒノエとしても不本意だった。

「――そういえば知ってたかい? 神子姫様が今日、平家の者と会ってたのを」

ヒノエの言葉に、弁慶の眉がぴくりと歪む。

「いつのことですか?」
「昼間――通り雨がもたらした偶然の逢瀬のようだったけどね」

偶然の逢瀬。
それを安易に信じられぬのは、彼女が『平家の神子』と呼ばれていたものだからだろう。
如何なる理由か、今は平家を離れたとはいえ、彼女がいまだ平家に想いを残しているのは明らかだった。

「平家に連なるものを取りこんで、いったい何をするつもりだい?」

間者の可能性も拭えない者をあえて取り込んでいることを問うヒノエに、弁慶は読めぬ笑みを返す。

「彼女には彼女のつとめを全うしてもらうだけですよ。白龍の神子の、ね」

そう――望美は重要な駒。
弁慶が犯した罪を償うための、何よりも重要な存在だった。
彼女に寄り添う、応龍の半身。
それは、本来ならばあってはならぬ姿なのだから。
叔父の真意を探ろうと見つめていたヒノエは、ふんっと鼻を鳴らすと踵を返した。

「帰るのですか?」
「ああ。生憎とこれでも忙しい身なんでね。あんたの黒い腹を探ってる時間も惜しいんだよ」
「ふふ」

余裕を含んだ笑みに、ヒノエは軽く目を細めると、宵闇へと溶け込んだ。

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