踏み出した一歩

百ほた2

「ようやっと来たか」
再び里を出る前にと挨拶に訪れた百地に、長老は表情を緩めて彼を見る。

「昨夜はせっかく床を用意してやったというのに、二人そろって雑然とした庵を選ぶとは酔狂なやつらじゃ」

「……ほたるとのこと、ご報告が遅れ申し訳ありません」

「よい。どうせおぬしのことだ、自分のような男が未来のあるほたるを娶るなど許されん、とでも思っておったのだろう。
だが、ほたるはおぬしを選んだ。それに、始めにほたるをおぬしに託したのはわしじゃからな」

それは、百地にならほたるを任せても良いと思っていたのだという、長老の許し。
そんな思いに目を背けていた臆病な自分に、百地は改めて浅慮を思い知り、頭を下げる。

「ところで長老。どうしてあいつに色を仕込まなかったんです?」

「なんじゃ今更。ほたると夫婦となる今、生娘だったことを喜びこそすれ、文句を言う筋合いはなかろうが」

「それは……」

「それに、ほたるを例外にしたわけではない。教えはしたが、あやつが極端に不向きだっただけじゃ」
百地の問いに長老は茶を飲むと、その当時を思い出すように遠い目をする。

「強張った顔で色を語り、男が少しでも色を見せた瞬間固まって以降なしのつぶて……それを繰り返せば不向きだと諦めるしかないじゃろう?」

そこまで色事に疎かったのかと、眉をしかめた百地を、長老が生暖かい目で見やる。

「それに百地……おぬしも色は不得手だろう。師然り、弟子然りじゃ」

「俺は不得手なわけでは……」

「何を言っとる。里の女がどれほど言い寄ろうが、いつも逃げておったのは誰じゃ?」

「………」

里の中でも1、2の使い手である百地は当然モテたのだが、肝心の百地自身があれこれと言い訳を作り、色事を避けていた。
それをつつくと黙り込んだ百地に、長老はふっと笑みを浮かべる。

「まあ、こうして夫婦となる今では詮無いことよ。百地、ほたるを頼んだぞ」
「……は」
百地が頭を下げると、長老は入口へと目を向ける。

「話は終いじゃ。そこで盗み聞きしている嫁を連れて行け」

「! すみません、聞くつもりではなかったのですが、声をかけそびれてしまって……」

「よい。好いた男の一面を知りたいと思うも女子の思いよ。のう、百地」

「長老……」

「惚気はどこぞでやるがいい。一人身のワシには酷じゃからな」

ずずっと茶を飲み干し退室を促す長老に、百地は再度頭を下げると、ほたるを促し部屋を出た。


「あ、あの、師匠……っ」
「……なんだ」
「長老が仰っていたことは本当ですか?」

百地も色事を苦手にしていたのだと、そう問うほたるに、苦虫を噛み潰したように眉をしかめると知らんと顔を背ける。

「ずるいです。私が疎いことを責めていらしたのに……」
「責めてはいない。事実を言っただけだ」
「………っ」
確かにほたるが色事に疎いのは間違いなく、その点での反論は出来ず俯いた。

「――だったら、師匠が私に教えてください」
「は?」
「その、本来なら私に色を教えるのは師匠の務め、でしたよね? 師匠は任務で長く里を離れられていたので、私は結局教えられませんでした」

細かなことは同性であるくのいちから教わるが、くのいちが色に溺れては任をこなせなくなるため、実技訓練も確かに必要とされ、その相手は上忍が当たっていた。
けれども、ほたるは先程長老から聞かされたように、色に不向きと判断され、そこまで至っていなかった。 そんなほたるからの思いがけない要求に、百地は動揺を隠せない。

「お前は……自分が何を言っているのか、わかっているのか」

「わかっています。昨日、長老が仰っていた自分の役目も、ちゃんと理解しています。だから、師匠にお願いしたいのです」

「……っ、色を覚える必要など、お前はもうないだろう」

「どうしてですか?」

食い下がるほたるに、百地はため息をつくと目を眇めて彼女を見る。

「ひとまず話は終いだ。長老の叱責を受けるつもりはない」
「師匠!」
「場所を移すといっている。いいな」

反論は認めないと目で訴えると、渋々ながらも頷いたほたるに、百地は内心ため息をつくと、人目を集める前にと里を後にした。

 * *

里からかなりの距離が離れた場所で休憩をとると、ほたるの訴える視線にため息をつく。

「……なんだ」
「先程の質問がまだ終わっていません。どうして不要なのですか?」

納得がいかないと、唇を尖らせる様は幼い頃の彼女を思い出させて、百地は複雑な思いを胸に抱きながらぐっとその身を抱き寄せた。

「だから……こういう仲だからだ。俺とお前が夫婦になるならもうお前がそのような任につくことはないからな」
「夫婦……」
百地の言葉をかみしめるように繰り返すほたるに、照れを隠すように顔を背けた。

「でしたら、やはり不要ではありません」
「なに?」
「夫婦となるのなら、なおさら私は師匠に教えていただかなければ……」

言いながら恥ずかしくなったのだろう、尻すぼみになっていく言葉に、それなら口にするなと言いたくなるのを堪えて身を離す。

「そんなふうに呼んでいるうちは無理だな」
「師匠?」
「慌てる必要はない。俺はもう、お前を手放す気はないんだからな」

一回り以上離れた年若いほたるを思い、身を引くことを考えていたが、それを彼女も自分も望まないとわかった今では、もう手放さないと決めたのだ。

「お前にも『安土の盾』という任がある。まずは互いの任をこなすことを考えろ」
「! ……はい」

安土を大切に思い、自ら信長の元で彼の目指す天下布武の手伝いをしたいと、そう願い出たほたるは、百地の言葉に唇をかむと素直に頷く。
そんな複雑な表情を浮かべる様が愛しく、百地は次の逢瀬の約束を交わした。
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