穏やかな時間

百ほた1

「……寝ちまったか。さっきまで、さんざんはしゃいでたってのに」

百地に背を預け、安心しきって眠るほたるを見下ろして、苦笑しながらその身に腕を回して支えてやる。
幼子のように慕い、無邪気に接するほたるは、百地が面倒見ていたあの頃とまるで変わらないというのに、触れる身は柔らかで香り立つ女そのもの。
あの頃とは比べようもなく【女】になったほたるを前にして、どれほど自分を律するのに苦心しているか、きっとほたるは想像もしていないのだろう。

よもや弟子に、一回り以上も年の離れた彼女にこのような感情を抱くとは思いもよらなかった。
愛着は確かにあった。
雛鳥のようにひたむきに慕う様はどうしたって庇護欲をそそられ、甘いとわかっていても泣く幼子に手を差し伸べずにはいられなかった。

しかし六年の後に再会したほたるは、豊かな肢体を持つ眩いほど美しい娘に成長していた。
なのに相変わらずの甘ったれで、あの頃のように無垢に慕ってくる姿に、しかし百地が抱いた情は、あの頃のそれとは似て非なるものだった。

だからこそ、胸に抱いた思いを告げるつもりはなかった。
なのにほたるは執拗に追いかけ、ついにはこの胸の内を暴き、降参させた。
元より手を伸ばしたかった本心は、この甘い誘惑に打ち勝つことはできなかった。

「だがな、ほたる。俺はいつまでもお前の師でいるつもりはないぞ」

彼女が自分に向ける想いが師へのそれだとは今さら思わないが、かといって惚れた男に向ける恋情以外の、雛のような感情は否定できないこの様である。
軽く口づけただけで頬を染め、恥じらう様はくのいちとは思えない初心なもの。
手練手管など求めてはいないが、腕の中で安心しきって眠る姿はいまだ師に向ける信頼であり、正直複雑でもあった。

彼女の恋情が百地のそれと同じくなるのを待つのが嫌なわけではない。
だがただ待っていては、ほたるは無意識にこの状態に甘んじるだろう。
それを甘受する気は百地にはなかった。
当然だ。抱く恋情をひた隠して、今までの師の顔を保とうとしていた百地を拒絶したのはほたる自身なのだから。

気持ちよさそうに腕の中で眠るほたるに指を伸ばすと、その唇をそっとなぞる。
あのまま師事していれば、いずれは色事の手練手管を教える任にもついていたかもしれなかったが、百地はその前に別の任で里を離れていたため、ほたるはそれを教えられていないままだった。
別に上忍であれば百地でなくとも誰でもよかったはずで、長老がなぜほたるに色事を仕込まなかったのか、その真意はわからなかったが、今となってはありがたかった。惚れた女が他の男に抱かれる様など、想像したくもない。

「……ん……」
「これでも目を覚まさないのか……。甘やかしすぎたか」

唇に触れても目を覚まさないなど、忍びとしてはもっての他、女としても危機感がなさ過ぎるだろう。
呆れて眉を潜めれば、抱き寄せる腕にすり寄る甘えた様に、ため息までも漏れた。
まるで子どもの頃と変わらない。
大きくなったのは身体だけか。

だが、それこそが悩みの種なのだ。
どんなに忍びとして色事への耐性があろうとも、好いた女を腕に抱いて何も感じないわけはない。
極力意識しないように努めているが、腰を支える手には柔らかな感触が触れ、首元には吐息が吹きかけられ、百地の理性はすり減るばかりだった。

「早く追いつけよ、甘ったれ」

ほたるの幼い恋心と、百地の恋情は天と地ほどにも差がある。
抱き寄せ、啄むような軽い口づけを戯れにするだけで満足できるほど達観してるわけではないのだ。
だからといって、強引に迫り、手折るなどもってのほか。ほたるの涙など見たくはない。

その柔らかさを知る唇から指を外すと、小さく息を吐いて空を仰ぐ。
殺伐とした忍びの生き様にはそぐわない、穏やかな時間。
だがそれを望むことを良しとするほたるの言葉を、百地は聞き入れることにした。
彼女の抱く夢を、守ってやりたいと思うから。
鳥の声と、愛しい女の寝息を感じながら、百地はこの穏やかな時間ごと抱き寄せた。

 * *

「……いつまで続けるつもりだ?」

鳥の声に耳を傾けていた百地が、視線はそのままに問えば、びくりと腕の中の身体が震えて、おずおずと瞳が開かれる。

「師匠……気づいておられたのですか?」
「当たり前だ。甘ったれ」

ほたるが目覚めたのは、ついさっきのこと。
夢うつつの出来事が現実であるとわかった瞬間、恥ずかしさに起きれず狸寝入りをしていたのをしっかりと見破られてしまい、頬を染めたほたるは恥ずかしそうに反論した。

「あ、あの、師匠……唇はダメです」
「………は?」
「その、唇は簡単に許さないようにと言われているのです」

脈絡のない話に一瞬呆けるが、これは先程百地がほたるの唇に触れたことを指すのだろう。

「……それは長老に言われたのか?」
「はい。唇に触れた人を好きになってしまうから、安易に触れさせてはならないと教えられました」

耳まで染めて恥じらう様は生娘のそれで、百地は頭を抱え込みたくなった。
色事を教えないばかりか、くのいちに貞操を守らせるなど長老は何を考えているのか。
安易に色を使えということではないが、くのいちが男との力差を補う術が色事。
色は身を守る術だった。

「……お前はそれをずっと信じてたのか」
「? はい。あの、何か違うのでしょうか……?」
純粋に信じていた様にため息しか出ず、百地は眉間に手を添えると、ちらりとほたるを見た。

「…………そうだったとして、俺がお前の唇に触れて不都合があるのか?」
「え?」

長老の戯言を信じていたことはまあいい。
よくはないが、とりあえず横に置いておく。
だがそれを自分に当てはめることの矛盾をつけば、一瞬の後さらに顔を赤らめたほたるは、問題ありませんと小さく呟いた。

「……それでよく今まで任をこなせたものだ」
「……っ、すみません」
色事に疎いことの自覚はあるのだろう、恥じらうほたるに呆れながら、再度指を唇に伸ばす。

「今まで触れたものはいないのか?」
「は、はい。師匠が初めてです」
「……この状態でそれを告げればどうなるか、お前は学ぶべきだ」

本人に自覚があろうとなかろうと、己の挙動が男を魅了するということをほたるは知るべきだろう。
――特に自分に対していかに効果的かを。
顔を近づけると、びくりと肩を震わせ目を瞑る。
不慣れながらも口づけの時には目を瞑るものだと学習したらしい姿に笑みを漏らすと、軽く触れ合わせ、反応を見る。
普段ならば一度きり、一瞬かすめるように口づけ離すが、今回は啄むような軽い口づけを繰り返し与えてみる。

普段との違いに驚いたのか、ぱちりと目が開けられたが、しっかりと腰に手を回していたため、容易には逃げられず、ほたるは恥ずかし気に再び目を閉じた。
その初心な様が欲をさらに煽りたてて、百地は崩れかける理性を必死に繋ぎとめる。

「……それで?」
「はい?」
「長老の禁を破った結果はどうだ?」
揶揄するように問えば、一瞬考え込むように俯いたほたるは、頬を染めると恥ずかし気に見上げた。

「……師匠が好きです。あ、でも、唇に触れられる前から好きなので、長老のいいつけを破ったからかどうかはわかりません」
「……ならばもっと触れればわかるか?」
「え?」

濡れて艶めく唇を親指で撫でれば、芳香が増すように色めいて、誘われるがままに再び啄むと、ん……と甘い声が耳をつき、百地は長老のいいつけは自分の方にこそ効果を発揮していることを自認した。
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