「……行ったか」
人の気配のなくなった森の中で一人呟くと、先程までほたるがいた場所を見る。
『こんなふうに大切な人と身を寄せ合い温かく暮らしていけたら……』
脳裏に甦る声。
姿は妙齢の女となったというのに、幼子の頃と変わらぬあどけなさで自分を慕う様にため息が出る。
師と呼びながらまるで愛しい相手に告白するかのように告げる姿に、あの頃と同じ思いを自分が抱けないなどとほたるは考えもしないだろう。
百地自身認められる思いではなく、浮かんだ思いを戯れ事と流すと、未練たらしい視線を断ち切って庵へと帰っていく。
朝廷と一国の連絡を担う一時的な拠点のために安心出来る居場所とも言い難いが、そも忍びに気の抜ける場所などあるわけもなく、長年染み付いた習慣に百地が気を緩めることはない。
けれども、もしも安住の場所があるのならそれは――。
浮かんだ存在は先程意識から消したはずのもの。
なのに簡単にこうして浮かぶとは、知らず影響を受けていると思えば、思わず眉間に皺が寄る。
散々甘ったれと注意してきたというのに、自身がこの様では示しがつかないだろう。
夢を持ち、私情を任に挟むほたるは忍びとしての有り様からは外れたもので、師としては本来誉められるものではなかった。
けれども、それが今のほたるの力となり、一人前の顔を見せる原動力なのだと言うなら、しようのない奴だと咎めることも出来ない自分も悪いのだとわかっていた。
「夢、か……」
百地が抱いたことのないもの。
抱こうと思ったことさえないそれを、彼の弟子は大切に抱き、前を向いてその実現のためにひたむきに進んでいた。
それを見守ろうと思うあたり、やはり長老と同様に自分もほたるに甘いのだろう。
天下泰平の世。
信長が成さんとする世界に浮かぶのは、ほたると過ごした日々。
忍術を教える以外は引き取られた長老の元へ居ればよいものの、いつ頃からか百地の庵で寝食を共にするようになっていた。
仕方なしに好物のワラビを食卓に並べれば、美味しくないと顔をしかめ、我が儘を言うなとたしなめつつも、幼子の好むものを長老に聞いて出してやれば、喜んで口にする姿に顔をほころばせていたのを彼女は知らないだろう。
お帰りなさいと、庵で出迎える姿に今まで感じたことのない安堵を抱いていたあの頃。
幼子の声と、妙齢の女の声が脳裏で重なることに顔をしかめながら、自分用に取り置いていたワラビを手に取った。
2020.02.22