壊れた世界の約束

央撫19

指先、唇、瞼、足、とひとつずつ確かめるように動かして、身体の記憶と脳を結びつけるのに少し手間取ったものの、何とか身を起こすことが出来た。

「……大丈夫?」
「ええ。心配かけてごめんなさい」
「それは全然気にしないで」
「……ありがとう」

たどたどしい動きにも急かすことなく見守っていてくれた央に礼を告げると、改めて辺りを見る。
見覚えのある部屋。
【私】は知らない、けれどもこの身体に残る〝私〟が知る景色に、記憶と体感の差を認識する。
俯けた視界に入った指先は長く、大人の女性のもので、記憶としてこれが今の自分の身体であるとわかっていても、やはり目にすると大きな変化に〝私〟が戸惑った気持ちを追体験する。

(確かに驚くわよね……)

事故に遭い、十年あまりの時間を意識のない状態で過ごしていた。
本来ならばそのまま目覚めることはなかったはずが、鷹斗の強く悲しい願いでこの身体は強制的に目覚めさせられた。
【私】でない、近似値の未来にあたる世界の事故に遭う前の小学六年生の撫子の精神を、この未来の撫子の身体に移し変えるというとんでもないことがなされた結果、この身体は目覚め、そして去った〝私〟に変わって【私】が目覚めた。
難しいことはわからないが、記憶や意識を情報としてそれぞれの身体に伝達させているらしく、〝私〟のことは今の【私】にも残っていた。
実際体感したのはこの身体なのだから別人というのも違うと思うが、やはり〝違い〟は隠しておくべきではないだろう。

「その、央。聞いて欲しいことがあるのだけど」
「うん、僕も聞きたい。でもまずはそこから出ようか」

央の提案に頷くと、手を借りてカプセルから立ち上がる。
ふらつくのはずっと寝たきりだったからか、【私】と身体が馴染まないからか。
そうしているうちにやって来た終夜にメディカルチェックを受け、情報交換を行った後に帰ることを許された。
本当は一日ぐらい体調を観察した方が良かったみたいだけど、また明日もメディカルチェックを受けに来ることを条件に退院(?)させてもらい、央と二人並んで歩く。

「えっと、僕の家でいいんだよね?」
「ええ、央がよければお願い」

やはり〝私〟とどこか違うのだろう、央の窺うような態度に少しだけ胸が痛むが、それでもしっかり繋がれた手は離さないでいてくれた。
着いた彼の家に、懐かしさと嬉しさが込み上げてくる。
帰ってこれたと、思う気持ちは〝私〟のものだろうか。

「はい、どうぞ」
「ありがとう。……これ」

央がいれてくれた紅茶に口をつけて、感じた甘さに記憶が呼び起こされる。

「はちみつをいれたんだ」
「美味しくなる魔法、ね」

まだ流通に問題のあるこの世界で私のためにいれてくれたはちみつの優しい味に、強張っていた身体から力が抜ける。
そんな私に、一瞬固まった央の瞳が揺れた。

「君は撫子ちゃん、なんだよね?」

問いかけは彼と共に過ごした撫子かを問うものだとわかって、少し迷うとふるりと首を振った。

「……【私】は元々この身体で眠っていたこの世界の九楼撫子よ。だからあなたと過ごした〝私〟ではないわ。ただ〝私〟があなたと過ごした時間は知っているわ。見知らぬこの世界であなたが助けてくれたこと、ここで二人で過ごしていたことも」
「えっと、ちょっと待って。少し状況をまとめさせてもらってもいいかな?」
「ええ」

混乱する央に眉を下げると、チクリとまた胸が痛む。
彼が混乱するのは当然だろう。
この身体は撫子だが、入っていた意識は厳密に言えば彼の知る〝私〟とは違うのだから。
それでも〝私〟が感じていたことは共有され、【私】の記憶として存在していた。

「君は、この世界で事故に遭ってずっと眠っていた九楼撫子ちゃんなの?」
「ええ」
「そっか……意識が戻ったんだね。良かった」
「……ありがとう」
「それで、僕と過ごした先日までのことを覚えてる」
「そうね」

でも君じゃないと、そう続くと思った言葉は聞こえてこなくて、自然と落ちていた視線を向けると、柔らかな笑みに言葉を失う。

「……だから君は困った顔をしたんだね。僕が戸惑う……ううん、悲しむんじゃないかって」
「…………」

その通りだ。
だって彼が好きだったのは〝私〟であって【私】ではないから。
【私】の記憶では彼の家のパーティーでほんの少し挨拶を交わしただけ。
今の彼と時間を過ごしたのは〝私〟だったから。

「君は、どうしたい?」
「央?」
「もし自分でない記憶だからって言うなら、久しぶりからやり直した方がいいのかなって」
「必要ないわ。でも央はいいの?」
「僕?」
「ええ。私は私だけど……あなたにとって同じとは思えないんじゃない?」

撫子の追及に一度ゆっくり瞳を瞬くと、真摯な眼差しが向けられる。

「君は九楼撫子ちゃん。僕と過ごした記憶があってもなくても、それは変わらないよ」

優しい言葉に、けれどもどう返していいかわからない。
だって今、彼を慕うこの想いが【私】のものだと言い切れない。
〝私〟と【私】は同じではないから。
たとえ近似値の過去と未来の存在だとしても、私達はそれぞれ生きてきたのだから。
だから撫子はありがとうとも、ごめんなさいとも返せずただ俯いた。

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20210213
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