特別を望む心

円撫8

「――撫子さん!」

突然、腕を握られて、驚き見つめると切羽詰まった表情の円に、撫子は瞳を瞬いた。

「ど、どうしたの? 円」
「…………いえ。なんでもありません」
「なんでもないって顔じゃないじゃない」

一瞬の沈黙ののち、否定を口にした円に食い下がるとつりあがった柳眉。
機嫌が悪くなったと感じた瞬間、ふいっと顔をそらされた。
そんな円に、撫子は自分の行動を振り返る。
何か、円の機嫌を損ねるようなことをしただろうか? 
ついさっきの出来事から、今日会った時までを思い出してみるが、特段思い当たることはなく、撫子はいよいよ困った。
ひどく焦った顔。
切実に求めるような、怯えた表情。あんな円を過去、撫子は見たことがあった。

「央と何かあったの?」

「………は?」

「だから、円があんなに焦ることなんて、央以外にないじゃない。だから、央と何かあったのかな、と思ったのよ」

「……あのですね。今日、あなたと会った時にそんなこと、思いもしませんでしたよね? なんで急に央のことを思い出すんですか?」

「それもそうよね。だったらどうして……」

あんな表情をしたの?
――そう聞こうとして、その先を拒む態度に言葉をつぐんだ。
聞かないでほしい。
そう、言っているように思えた。

「円?」

「じっとしていてください。抱きしめられないじゃないですか」

「急に抱きしめられたら、驚くに決まってるでしょ」

「ぼくとあなたは恋人同士ですよね? 恋人を抱きしめるのに、いちいち断りを入れなくちゃいけなんですか? ずいぶん冷たい人なんですね、あなたって」

「そんなこと言ってないでしょ。ただ、急にこんなことをされたら驚くのよ」

「だったら構いませんよね?」

いつも通りの円節に、撫子がため息をつくも受け入れると、抱きしめる腕に力が入る。
どうしたの? 
何を不安に思っているか尋ねたいが、口にすることは憚られて、そっと円の胸に手を添えると、ぴくりと震えて。

「撫子さん」
「なあに?」
「好きですよ」

直球の言葉に、撫子の頬が赤く染まる。

「照れてるんですか?」

「照れてないわよっ」

「そうですか? そのわりに顔が赤いんですけど」

「……っ、急に円が変なこと言うからじゃない」

「恋人からの愛の言葉を変なこと扱いですか。やっぱりひどい人ですね」

「意地悪なことを言う円が悪いんでしょ」

「意地悪じゃありませんよ。怒ってるあなたも好きなんです」

怒ってる顔が好きなんて、普通恋人に言わないだろう。
円が変わっていることは、出会った時からわかっていたが、やはり怒り顔を褒められて喜ぶ女性はいないだろう。
複雑な表情を浮かべる撫子の頭の上で、円は胸に巣食った不安に目を伏せる。

ある時から、撫子は時々遠くを見つめて悲しむような顔を見せるようになった。
本人は自覚していないようで、円が尋ねると驚き、そんな顔してた? と首を傾げられたが、そんな彼女を見つめるたびに、どこか遠くに行ってしまうような焦燥に駆られ、撫子の存在を確かめずにはいられなくなった。
さっきもそう。
会話がふと途切れた、ほんのわずかな間。
空気が途切れた感じがして撫子を見ると、円を不安に陥らせるあの表情――自分ではない、別の『円』を見つめているような姿に、彼女の意識をこちらに戻さずにはいられなかった。

「行きますよ」

「え? ど、どこに行くの?」

「あなたの家は邪魔が入りますから、ぼくの家でいいですよね」

「いいも悪いも、もう向かってるじゃない」

「嫌なんですか?」

「嫌じゃないわよ。……私も、まだ円と一緒にいたいもの」

「……あのですね。そうやって無自覚にぼくを煽らないでもらえます? もしかして、期待してるんですか? だったら恋人として、答えないといけませんよね」

「煽ってないし、期待もしてないわよ」

「そうなんですか?」

「ええ」

呆れたように息を吐く撫子に微笑むと、滑らかな頬に指を添わせて。
反射的に上向いた唇に自分の唇を重ね合わせる。

「……ん……っ」
「ぼくは十分煽られました」
「円! ここ、外よ?」
「ええ。だから続きはぼくの家でにします。嫌だとは言いませんよね?」
「……言わせないくせに」
「だってあなた、ぼくのこと好きでしょ?」

にこりと浮かぶ笑みに、魔性の笑みってこういうものをいうんじゃないかしらと思いながら、撫子は繋いだ指に少しだけ力を込めた。
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