誰も知らないお話

政府2

かすかに震えた睫毛。
ゆっくりと開いた瞼に、傍らに佇んでいたキングが歓喜の声を上げる。

「来て円! 撫子が目を開けたんだ!」

「まだ一時的な反応でしょう。近似値の世界の『彼女』への干渉はまだ始めたばかりですし」

「それでも、撫子が目を開けたんだよ」

全身喜びに打ち震えるキングに冷めた視線を向けていたビショップは、意識を手元の機械に戻すと、定期的なメンテナンスを続ける。

CLOCK ZEROの地下深くに眠る彼女の存在は、キングとルーク・そしてビショップの3人しか知る者はいない。
この建物自体が彼女を守る城であり、彼女を目覚めさせるために存在しているなどと、思う者はいないだろう。

10年前、事故で医学的には【死んでいる】と診断された九楼撫子。
その事実を受け入れず、医学で救えないのなら科学で救う――そう決意したキングが建てたものが、この世界の現政府であるCLOCK ZEROだった。

「レイン先輩から送られてくるデータも問題ないですし、あなたの目的が達成するのも時間の問題ですね」

「うん……ずっと、この瞬間を待っていたからね。絶対に成功させるよ」

笑顔で語るキングに抱くうすら寒い感情を、ビショップは意識的に感知しないように追いやった。
彼を壊してしまったのはビショップ。
撫子が事故にあう要因を生み出し、彼を狂わせ――この世界は壊れた。
再び瞳を閉じた撫子の眠るカプセルに愛おしそうに触れるキングに、ビショップは立ち上がるとドアへと歩いていく。

「メンテナンスは終わりました。ぼくは先に戻っても構いませんよね?」

「うん。ありがとう、円」

他人が見れば優しげに映るキングの笑顔も、ビショップには罪を思い起こさせるものでしかない。
失礼しますと、形だけの礼をして立ち去ると、知らず詰めていた息を吐きだした。

過去の罪が再び円に罪を犯させる。
それでも彼には拒否する権利はない。
いかなる理由があろうとも、円が彼女を【殺した】のは事実なのだから。
遠ざかる足音に、1人残ったキングは、カプセルの中で眠る撫子に話しかける。

「撫子。ようやく君に会えるよ」

病院のベッドで眠る撫子を見た瞬間からずっと、彼女が目覚める時を待っていた。
こんな運命は認めない。
たとえ何を犠牲にしても、世界中を敵に回しても、絶対に助ける。
必ず俺が迎えに行くから、と。
あの日、そう誓ったのだ。

「だから、待ってて」

――まってて。そう、手紙で伝えてくれた撫子。
だから迎えに行こう。
君のいない世界なんて、意味はないのだから。
カプセルから離れ、立ち上がると、ドアへと歩いていく。
撫子を迎えに行くために。


静かになった室内。
そこで眠る撫子は、深く沈んだ意識で、2人の会話を聞いていた。
もちろん、全く意味など分からない。
それでも、ひどく悲しい――そんな気持ちを感じていた。

『これは……夢よ』

そう。いつもの夢。
どこか現実味を帯びた、けれども夢。
ただ一つ、いつもと違うのは、全く身体が動かないこと。

普段ならばほとんどの人に認識されないとはいえ、荒れた世界を歩きまわることができていたし、一部の人とは会話を交わすこともできていた。
なのに今回は、意識こそあるのに目を開けることさえできず、ただ真っ暗な世界にたゆたっていた。
時折、映画のスクリーンのように映るのは、撫子の大切な仲間たちに似た人。
それでも、その姿は撫子が知る彼らとはどこか異なっていて、なのに【知っている】気がしてひどく戸惑う。

『私は……だれ……?』

こぼれた問いは、けれども声にはならなくて。撫子の胸にだけ広がり消える。
これは夢。
だったら、この感情はなに?
焦りと悲しみ。
それらを感じながらも、どうしてそんなことを思うのかがわからない。

ぽつん、と波紋が広がるように意識が揺れて。
目覚めるのだと、どこかでそう認識する。
――さようなら。
ふと浮かんだ言葉は、静かに消えていった。
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