「九楼さん?」
理一郎と久しぶりのデートで街を並んで歩いていた撫子は、突然の呼びかけに声の主を振り返った。
「加納君も……小学校の卒業式以来ね」
親しげに話しかけてくる女性に撫子が戸惑っていると、それを感じたのか、相手の方が秋霖学園の同級生だと名乗ってくれた。
(そういえば、クラスメイトにいたかもしれないわ……)
小学生の頃はクラスから浮いた存在で、あまり親しい友達がいなかっただけに、記憶に残るクラスメイトというものがそもそもいないのだが、かすかに連絡簿に名前があったような気がする、と記憶を呼び起こす。
「二人とも、相変わらず仲がいいのね。卒業式でもそうやって手を繋いでいたものね」
「卒業式……」
「――あ。ごめんなさい、引き留めて。同窓会があったらまた会いましょうね」
撫子の様子の変化に理一郎が心配そうに眉を寄せると、携帯電話の着信に元クラスメイトの女性は、慌ただしく二人の前から去っていった。
「……撫子?」
理一郎の呼びかけにハッと顔を上げると、心配そうに見下ろす顔に慌ててかぶりを振る。
「理一郎は覚えてた? 連絡簿に名前があった気はするんだけど、はっきり思い出せなくて……」
「お前が覚えていないのに、俺が覚えていると思うか?」
「……そうよね」
理一郎の交友関係は撫子とそう変わらないことを知っているので、ふふっと笑うもすぐに笑みが消えてしまう。
卒業式。
それは撫子が経験したことのないもの。
この世界の撫子が経験したことになっているそれは、しかし今この世界に存在している撫子の経験したものではない。
小学6年生の時、信じられない出来事を経てこの世界で暮らすことになった撫子は、本来ならばここには存在せず、彼女の記憶は小学6年生の途中で22歳の撫子にすり替わらなければならなかった。
そのことを後悔したことはないけれど、こうして自分とは違う撫子の存在を感じると、どうしても複雑な思いを抱いてしまうのだ。
けれども、理一郎に心配をかけたくなくて、撫子は無理に胸の奥にもやもやした思いを追いやると、ぐいっと腕を引かれた。
「理一郎?」
そのまま、何も言わず歩いていく理一郎に困惑するも、理一郎は何も話してくれず、ぎゅっと握られた手に引かれるまま、少し早足で二人歩く。
そうして手を繋いだまま、加納家に帰ってくると、理一郎の部屋に入った瞬間、強く抱き寄せられた。
「理一郎?」
どうしたの?
撫子がそう口にする前に発せられた、理一郎の声。
「……大丈夫か?」
それは撫子を気遣うもので、胸の奥に隠したはずの想いが溢れて、撫子は俯いた。
「撫子?」
「……ずるいわ。どうしてそんなに優しいのよ」
昔からずっと一緒にいたから、互いの考えていることは口にしなくても理解できることが多かった。
それでも、今は撫子の知らない経験が理一郎にはあって、それは撫子との確かな差だった。
「ずるいって……優しくない方がいいのかよ」
「そんなこと言ってないわよ。ずるい、わ……」
これは撫子のただの八つ当たり。
埋められない差があるのは覚悟のはずだったのに、不意に揺らいでしまう自分が情けなくて、つい理一郎に当たってしまった。
それこそが、この姿が偽りであるように思えて、撫子はギュッと胸を握りしめた。
「……後悔、してるのか?」
呟きにばっと顔を上げると、そこには苦しそうな理一郎。
「後悔なんてしてないわ。私が理一郎の傍にいたくて、この世界を選んだのだもの」
自分勝手にすべてを捨てても、理一郎と一緒にいることを選んだ。
あの時の選択を後悔することはない。
それでもこうして揺れてしまうのは、撫子の弱さだった。
「撫子……」
「謝罪なんて聞きたくないわ。理一郎が謝罪する必要なんて、一つもないもの」
撫子を離したくない。
過去も未来もなくてもいい。
撫子が隣にいれば、それ以外はもういいんだと、以前理一郎は言ってくれた。
それこそが撫子の望むものであり、共通の想いだった。
確かに撫子は、段階を踏んで成長していく機会を失った。
本来ならば小学校を卒業して、中学校に入学、卒業、高校進学、と進んでいただろう過程をもう知ることはできないのだから。
それでも、理一郎と離れることはできなかった。
すべてを犠牲にしても、それでも目の前の理一郎の隣にいることを選んだのだ。
時々世界に2人だけしかいないような感覚に陥ることがある。
それはあの世界の記憶を持っているのが理一郎と撫子だけだからなのか、見慣れぬ改変された世界に違和感を覚えるからなのかはわからない。
それでも理一郎が隣にいてくれたら大丈夫。
それは撫子の中で絶対の確信だった。
「撫子……」
囁きと共に降り落ちてきた口づけを受け止めて、理一郎の想いを感じ取る。
誰よりも大切で、失えない存在。
それは撫子も同じ想い。
「んっ……ちょっと……もう少し……」
「優しいのは不満なんだろ?」
こういうことにじゃないわよ! そう言いたいが、理一郎の唇は重なったまま、言葉を紡ぐことを許さない。
子ども扱いされるのも癪だが、冷静に受け止められるほど大人でもないのは確かで、撫子は悔し紛れに「理一郎なんて……好きよ。ばか」と耳元で囁いた。
思わぬ反撃に理一郎の顔が真っ赤に染まったのは言うまでもない。