君が届かなくなるその前に

冴市1

*冴木ENDで最後に市香が言っていた「ここではない別の世界なら」の物語です。

「…………木くん」

「……冴木くん?」

呼びかけにハッと意識を浮上させると、隣に座る市香を見る。

「……星野?」
「早く食べないともうすぐお昼休み終わっちゃうよ?」

「昼休み? ……って星野、その格好どうした?」

「え? どこか変?」

「変……って」
そもそもどうして警察官の制服ではないのかと問いかけようとして、自分も彼女と同じ見慣れない学生服を着ていることに気がついた。

「なんだ、これ……」

「冴木くん、寝ぼけてる? どうせまた遅くまでゲームしてたんでしょ」

「いや、ゲームって年じゃもう……」

置かれた状況が理解できずに戸惑っているとチャイムが聞こえて、市香が慌ててお弁当を片付け冴木を促す。

「予鈴鳴ったよ、急ごう!」

「あ、ああ」

わけがわからないがとりあえず市香に従って弁当を片すと、彼女について教室へ走る。
当たり前に席につく市香を呆然と見つめていると、「早く冴木くんも座りなよ。先生来ちゃうよ」と隣の席を促されて、ここが自分の席なのかと戸惑いつつ座った。
しばらくするとやって来た教師が授業を始め、市香が熱心にノートに書き写す姿を横目で見ながら、ここは夢の世界なんじゃないかと考える。
だって市香とは警察学校で一緒ではあったが高校を共には過ごしていないし、そもそも冴木は小中高校に通ったことはない。
それは戸籍をもたない故だったが、家庭教師がついていたので学習面で困ることはなかったが、このような穏やかな光景の中に身を置くことはなかった。

隣の机から転がり落ちた消しゴムを反射的に拾うと、市香がありがとうと微笑み受け取る。
そんな非日常に違和感を抱きながら、冴木は学校での一日を終えた。

* *

「冴木くん、帰ろう」

「ああ」

現実味のないままホームルームを終えると、市香と並んで教室を出る。
入る時にさっと確認していたクラス札を再度確認する。
どうやら今の自分は高校1年生らしい。

「なあ、星野。俺の家ってどこだかわかるか?」

「冴木くん、まだ寝ぼけてるの?」

「いや、今日用事がなければ寄ってかないかと思って」

架空の世界。
この世界がどんな設定なのか興味がわくも、本来の意識がある冴木には自分の家さえわからなかった。

(まさかアドニスの隠れ家ってことはないよな?)

そもそも家族構成がどうなっているのかさえ見当がつかないが……と考えて、ふと気づいた。
いつも絶えず響いていた嘆きの声が聞こえないことに。
自分が空ろだからか、哀しみが共鳴するのか、ずっと聞こえていた嘆きの声が、今はまったく聞こえなかった。

「いいよ。冴木くんのお母さんのお菓子美味しいから、実は楽しみなんだ」

「そう……」

お母さん……母親。
記憶にある母は彼を彼と認識せずに死んでいった。
ス……ッと空虚を吹き抜けていくのを感じて思わず市香の手を取ると、瞳を丸くしながらも振り払われることはなく、そのまま何となく手を繋いだまま歩く。

市香に恋情を抱いたことはなかった。
特別な存在であるのは確かだが、冴木が彼女に向ける思いはそんな柔らかなものではなかった。

(この世界でだったら星野とーー恋人になることもあるのか?)

俺が俺じゃなく、ただの「冴木弓弦」なら。
いつかどこかで思った考えが不意に浮かんで苦笑する。
もしもなんてありえない。
生まれ落ちた瞬間に自分は自分であり、過去は変わらないのだから。
でももし違うのなら。
そもそもの前提が違うのならば?

「冴木くん?」
入らないの? と見つめられて、いつの間にか「冴木」と表札が出ている家の前に立っていた。
市香の反応からここがこの世界での自分の家なのだろうと知ると、探るようにドアノブをひねり中に入る。

「弓弦?」
中から聞こえた声は記憶の中の母とは別のもので、視線を向けると見知らぬ優しげな女性が笑顔を向けて出迎えてくれる。

「あら、市香ちゃんも一緒だったのね」

「お邪魔します」

「どうぞ、すぐにお茶を持っていくわね。弓弦、部屋は大丈夫なの?」

母親らしいこの人と市香は面識があるらしく、二人のやり取りに曖昧に返事をすると、2階に上がってとりあえず手前の部屋に入る。
床に雑然と置かれた雑誌や本に、枕元にはゲーム機にペットボトル。
いかにも学生らしい風景に室内を見渡していると、「やっぱり寝不足はゲームだったんだね」と、市香が散らばった本をまとめながら隅へと片す。

「あー悪い、散らかってて」

「いいよ。いつものことでしょ?」

苦笑する姿はここに来るのが初めてではないことを示していて、この世界でも市香は自分にとって近しい間柄であることがわかった。

「なあ、俺たちって恋人なわけじゃないよな?」

「え!? ち、ちがうよ! 冴木くん、本当にどうしたの?」

冴木の質問に頬を赤らめて否定する様に、もしかして市香もまんざらではないのかと驚く。
もしも違う世界があったらーーそんなことを考えたことがあった。
あれは……いつのことだった?
「ーー俺が好きだって言ったらどうする?」

そんなの戯れ言でしかないのに、どうしてこの胸はこんなにも高鳴っているのだろう?
驚いた表情で冴木を見た市香は、視線を泳がせると上目遣いに彼を見る。

「……本気で言ってるの?」

「ああ。俺、星野が好きだよ」

どこかでそんな甘い感情じゃないだろうと訴えるが、俺の口からは市香を乞う言葉ばかりがこぼれだしていた。

「私は…………」

市香が口を開いた瞬間ノックの音がして、母親がお盆を持って現れる。

「遅くなってごめんなさいね。ちょうどシュークリームが焼けたところだったから、少し時間がかかっちゃって」

「い、いえ。おばさんの作るお菓子、とても美味しいので嬉しいです!」

「まあ、ありがとう。弓弦なんか全然褒めてくれないから作りがいがなくて。やっぱり女の子はいいわねぇ」

ゆっくりしていってね、とドアを閉める瞬間、目が合った母親のファイティングポーズに、先程までのやり取りを聞かれていたことがわかって苦笑すると、シュークリームを手に取り口に運ぶ。
優しい味。
市香の作る弁当に通じるその味は、自分を思って作られたものだからだろうか?

「冴木くん、クリームついてるよ」

冴木が拭うより先に伸びてきた腕を掴むと引き寄せて、あとわずかで唇が触れ合う距離で答えを求める。

「……答えは? 教えて」

声が震えているのも気にせず問えば、市香は眉を下げてそろそろと見上げ、頬を染めて「私も」と口にした瞬間、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。

「冴木くん?」

「はは……なんだよ、これ。カッコ悪いよな……」

感極まって泣くなんて。
けれども今胸に広がるのはどうしようもない喜び。
これは夢だと、そうわかっているのに、こんな感情じゃなかったと思うのにーー嬉しいなんて。
止まらない涙に市香は指を伸ばすと、優しく拭ってくれる。
その手を取ると距離を縮めてゼロにする。
市香とのキスはシュークリームの味がした。

2018/10/17
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