眼鏡を外したその後は

ロクナナ18

「分かってると思っていたんだけど、どうやら君は想像以上に鈍いみたいだ」
「はあ? あんた喧嘩売ってるの?」
「売ってるのは君でしょ?」

眼鏡を外し、ガラス越しでない赤の瞳に見つめられて喉が干上がる。
なんで、まさか魔法?と指を鳴らして解除を試みるが、変わらぬ現状に焦ってしまう。
まさに蛇に睨まれたカエルのようだと考えて、何で私があいつを怖がってるんだと怒りが沸く。
なのに目をそらせない。
赤の瞳に宿る空気がそれを許さない。
怖くなんてないぞと自分自身に言い聞かせるが、どうにもうまくいかない。
少しでも動いたら捕らわれる――そんな危機感に襲われて、逃げたいのに逃げられない。

「君から好きだって言われたんだよね」
「……っ、そ――あんただって」
「好きだよ、僕も」

復興祝いのパーティーのことを蒸し返され、恥ずかしさに思わず言い返せば、あの時と全く同じ言葉を返されて思考が空回る。
体が固まっていなければすぐにでもこの場から逃げ出しただろう。
拘束されているわけでもないのに、何故動けないのか。
だがどうしようもなく警鐘が鳴っているのだ。
今動くのは危険だ、と。

「ねえ、ヘル。君に口付けする予定はあるの?」
「は?」
「答えなよ」
「そんなのあるわけないじゃない」
「へえ、それなのにあんなに距離を縮めることを許すんだ」

何だそれ、こいつは何を言ってるんだ?
ロックマンの言ってることがさっぱり分からず眉を寄せると、踏み出した一歩に距離を詰められ、頬に添えられた手のひらにびくりと肩が飛び跳ねる。

「な……っ、ちょっと、何」
「さっきの男には許したのに僕は嫌なわけ?」
「は? 何言ってるの?」
「どうなの」

さらに近づいた端麗な顔に、体温が急上昇する。
何でこんな状況になってるのか皆目検討つかないが、どうやら責められているらしい。
だが何でこいつに責められなければならないのか。
こいつは何て言った? さっきの男?
赤の瞳の強さと、感じたことのない空気に目をそらすことさえ出来なくて、思考を無理矢理他に移して先程言われた内容を考える。
さっきの男に何を許したって?
そもそもさっきの男とは誰のことだ?

「パーソナルスペースは知ってるよね」
「知ってるけど」
「君はあまりにも危機意識が低すぎる。大体頭にほこりがついてるって、どれだけ粗暴に動けばそうなるの。それをカウンター越しに相手に指摘されるなんて、受付嬢の自覚が足りないんじゃない? 身嗜みなんて作法以前の問題だよね」

つらつらと並びたてられる悪口(悪意以外のなにものでもないのだから悪口でいいだろう)は、先程カウンターであった一幕で、目の前の男の乱入でそういえばきちんと相手を送り出せていなかったことを思い出して眉をつり上げた。

「邪魔したあんたに受付嬢の自覚云々言われたくないわよ!」

確かにほこりを頭につけて応対していたことは不手際だったが、それさえ依頼書を取りに行った際に突然落ちてきた書類によるもので不可抗力だ。
それにパーソナルスペースだ何だと言うのなら、この距離の近さは何だ。
明らかに領域侵犯しているのはこいつだろう。

「ちょっと離れなさ……」
「ほんの少し動くだけで口付け出来るんだって分かってる?」
「……っ」

言い逃れを許さないとばかりの指摘に喉が干上がる。
口付けと言われて自然と目の前の男の唇に視線が向いて、カアッと頬が熱をもつ。
途端に鼓動がバクバクと暴れだして、足が震える。
何でどうしてとぐるぐる空回る思考に、けれども目をそらすのは矜持が許さなくて、必死に赤の瞳を睨み返す。
一分なのかそれ以上なのか、正確な時間経過も分からなくなっていたら、不意にロックマンが身を引いた。
はぁ、と深いため息をはく目の前の男に、安堵するより訝しむと、眼鏡をかけ直してこちらを見る。

「あの距離を許すのは僕だけにしなよね」
「はあ? 何でよ」
「あのパーソナルスペースが許されるのは恋人だけだから」

恋人。互いに恋しく思っている相手。
とっさに浮かんだ辞書の説明に声にならない声をあげる私を尻目に肩をすくめて。
「初心者マークの君に合わせていくつもりだったけど、考えを改めることにするよ。このままだと不快な人間が後を絶たない」

何を言っているのかわけがわからないが、初心者マークという言葉に負けず嫌いな性格を大いに刺激される。
けれども、じゃあねとさっさと身を翻して去っていったあいつを追いかける気もしなくて。
ふと眼鏡を外したあの瞬間の表現しがたい空気を思い出して、唇をきゅっと噛み締めた。

20211028
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