甘美な幸福

柊千5

その気配に彼が気づいたのは必然だった。
物陰に潜んでいた襲撃者。
麗しき王へと向けられた弓。
空を切る音。
次ぐ肩を裂く痛み。

「……柊!?」
愛しい少女の悲鳴を耳元で聞きながら―――柊は意識を失った。

 * *

目を開けた時、始めに映ったのは見慣れた自分の部屋の天井。
いまだ覚醒しきらぬ意識を正常に戻そうと視線を動かすと、傍らの土蜘蛛と目が合った。

(――遠夜? なぜ彼が私の部屋に?)

浮かんだ疑問は、しかし音にはならず。
柊の様子をじっと見つめていた遠夜が後ろを振り返ると、間をおかずに千尋が傍らへと駆けよってきた。

「良かった……気がついたんだね」

空色の瞳に浮かんだ大粒の涙を拭おうとして、己の異変に気がつく。
鉛のように重い身体。
痺れた舌は言の葉を紡ぐことさえできず。
驚き視線で問うと、部屋に居並んだ仲間達が説明を始めた。

「あなたは毒矢を受けて倒れたんですよ」

「王に仇なそうとした叛徒は捕らえた。忠義、見事だった」

「すぐに遠夜が治癒を施したので心配はないでしょうが、かなり強い毒のようですから、しっかりと休養して下さい」

風早と忍人の話に、先程の出来事を思い出す。
無事彼女を守れたのだと安堵が胸に広がる。
そうして他の者達が部屋を辞すと、一人残った千尋は苦しげに俯いた。

「……ごめんなさい。私のせいで」

(――姫のせいではございませんよ。私はあなたの忠実な僕。この身であなたを守れるのならいくらでも……)

そう伝えたいが言の葉をなさぬ身体に、柊はせめてもと左の手を動かした。
とん、とん、と何度か指でベッドを叩くと、それに気づいた千尋が小さく呟いた。

「……なに?」
――とん、とん。

「……もしかして落ち込むなって……言いたいの……?」
――とん。
イエスの意味をこめて一度叩くと、千尋の顔がくしゃりと歪む。
優しい彼女のこと、きっとさらなる謝罪の言葉を飲み込んだのだろう。
それを私が望んでいないと分かったから。

「守ってくれてありがとう。でも……柊が傷つくのは嫌だよ……」

誰よりも周りのものが傷つくことを悲しむ優しい彼の王に、とん、と指で頷く。
ああ、この腕が動かせるのなら、悲しみに揺れる瞳を抱き寄せて心を和らげることが出来るのに。
そう思った瞬間、頬を柔らかなぬくもりが触れた。

「よかった……」

心からの呟きは、柊がここにいることへの安堵。
千尋を守り、死んでいった他の時空の柊を思い出してしまったのだろうか。

(――あなたのためならば私は何度でもこの身を差し出すでしょう。きっとあなたは悲しまれるのでしょうが)
それでも、それが柊の本心であり、譲れぬ思いでもあった。

「私を守るなら……あなた自身も守って」

まるで柊の心を読んだかのように紡がれた言葉。
じっと見つめる涙に濡れてなお、凛と輝く強き瞳。
これこそが彼の王なのだ。

(――そうでしたね)

嘆き悲しむだけではない、自らの身をも差し出すのが千尋。
かつて民のためにその身を龍に捧げた神子故なのか……いや、彼女の清く気高い魂がそれを選ぶのだろう。
ならば――。

とん。
承諾をこめて一度叩くと、千尋の顔が明るくなる。
この笑顔を曇らせないために尽力すること……それが柊に課せられた使命。

(――いいえ。誓い、でしょうか)

先を見通す力ゆえに、願うという他に委ねることを諦め、定められた運命の中を歩んできた柊。
しかし今、彼が歩んでいるのは規定伝承ではない未来。
何が起こるかわからない不安もある。
けれど、それ以上に満ち足りる幸福があるのだから。

(――ああ、この身が動かせたならあなたの甘い唇に許しを請うのですが)
そう思った瞬間、柔らかな感触が重なった。

「早く元気になって……」
心からの祈り。
汚れなきその想いが柔らかく柊を包み込む。

(――なんともどかしいことでしょう。いえ、これは幸福なことかもしれませんね。あなたからの口づけを受けられるのですから)

動かぬ身体、けれどもそれ故に初めて彼女からの口づけを得られた。
蝕む毒がもたらした甘美な幸福に、柊はそっと微笑んだ。
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