十六夜

弁望121

望美の想いは少女の淡い恋だと思っていた。
離れてしまえば時間が忘れさせてくれるほどのものだと。
だから雪の冷たさに彼女を思い出す自分のような想いはないと、勝手にそう思っていた。それでいいと思っていた。
なのに彼女は舞い戻った。
今の自身の結末を予想して、安全な、彼女が本来あるべき姿であれる場所にと、そう思ってわざと冷たく突き放して想いを断ち切ったというのに。

「どうして……」

弁慶の過ちで無理矢理神子として喚ばれた彼女は、帰りたいと願っていた。
なのにどうして戻ってきたのか。
幻かと思った存在は、けれども勇ましく剣を構え、矢を射かける源氏の者達の前に立ち、その剣を振るった。
無駄のない動きは記憶にあるそのままに、姫将軍とも呼ばれていた神子に、逆に相手が気圧されているのが伝わってくる。

「私は、もう神子じゃない。ただの春日望美です。だからこそ、この人のためにーー戦う!」

散る血が桃色の衣を染め、滑らかな肌に傷が走る。
それでも決して止まらない望美に、一人、また一人と戦意を喪失した兵が逃げていく。
いくら指揮官が怒鳴ろうとも、彼らの中に膨れ上がった怯えは拭えないのだろう。
これ以上は不利だと悟り、引き上げる姿を油断なく身構えながら見送った彼女は、パッと振り返ると駆け寄ってきた。
触れるぬくもりが冷えた身体に伝わる。
寒さだけでなく、血を流しすぎたのだろう。弁慶の身体は指先まで冷え、その冷たさに望美の顔が強張る。
助かる見込みはないと、自分の状態をこの上なく冷静に見極める。
また彼女を傷つけてしまう自分は、どこまでも罪深いのだろう。
九郎は逃げきれただろうか?
弁慶の取った策を知れば悔やむだろうが、どうしても彼を死なせたくなかった。
崩れ落ちた身体を抱き留めた彼女も、支えきれずに共に膝を着く。
何か叫んでいるようにも思えるが、その声はひどく遠く、死が間近にあることを知る。
謝罪の言葉を口にすることも叶わず、せめて最期にその姿を焼きつけたいのに、重い目蓋を開くことも出来ず、寒さも痛みさえ感じられなくなった瞬間、穏やかな力に包まれた。

いなくならないで。側にいて。
ーー側にいたい。ずっと。
あなたを、失いたくない。

あたたかくて優しくて、甘い。
清廉な祈りが声なき声となって伝わってきて、誰よりも何よりも弁慶を求める思いに囚われる。
もう無理だ。誤魔化すことも、逃げることもーー逃がすことも。
あれほど重かった目蓋を開くと、眉を寄せて一心に祈る彼女が見えて、指先に力を入れて柔らかい頬に触れた。
自分を映す翡翠の瞳が揺れて、濡れて。
ぽたり、ぽたりと降り落ちるあたたかな雫に、泣かないでと囁くと無理だと綺麗な眉が歪んだ。

「先輩」

聞こえてきた声は、彼女を誰よりも大切に思う存在の一人で、ああ彼も戻ってきてくれていたのだと、そう理解した瞬間に意識を失った。

◇◆◇

気がつくとそこは見たことのない場所で、一瞬強張った身体は、けれども傍らの存在を見留めると力が抜けた。

「弁慶さん!目が覚めたんですね!」
「ここは……」
「譲くんの家です。あ、まだ動いちゃダメですよ!」

望美の言葉に身体を起こそうとして、瞬間走った痛みに喉の奥で呻いた。

「白龍が傷は癒えたけど痛みは消せないって言ってたんです。失われた血も、すぐには回復しないって」
「そのようですね。起き上がるのは無理そうです」

自身の状態を確認するようにゆっくり瞬くと、傍らの望美が眉を下げた。

「すみません、勝手にこちらの世界に連れてきて。安全な場所がどこかわからなくて、私と譲くんじゃそこまで連れていくのは無理そうだったんです」
「ここは……君のいた世界なんですね」
「はい」

視線を動かし辺りを見る。
室内も調度品も見たことのないものばかりで、確かにここはあの世界とは異なるのだと理解する。

「何か欲しいものはありますか? お水とか食べ物とか」
「少し、眠っても構いませんか? 身体が重くて」
「はい。ゆっくり休んで下さい」
「望美さんーーありがとう」

重い目蓋に逆らわずに目を閉じる。
考えなくてはならないことはある。
それでも、身体が求める休息に抗うのは無理だと理解して、今は癒すことを優先した。

◇◆◇

傷は塞がっていてもやはり酷く損傷していたので、弁慶は有川家で二ヶ月近くをほぼ寝たきりで過ごした。
望美は譲と共に学校に通っているらしく、毎日やって来てはこちらの世界のことを説明してくれた。
板に映る絵ーーテレビで、飛行機や電車などあの世界で望美から聞いていた物を見ては驚いた。
水を得る手段さえ井戸や湧き水などではなく、蛇口と呼ばれるものを捻るだけ。
湯は火をおこさずとも水と同じく簡単に使え、温泉のように毎日贅沢に湯に浸かることも出来る。
比べようもないほど便利なものが溢れた世界に、彼女達がどれ程の不便さを強いられていたかを実感し、また一つ罪悪感を抱いた。
やはり彼女はあのような血生臭い場所にいるべきではない。
弁慶が手を伸ばしていいはずもないと思えば、その後己が成すべきことを考える。
まずは九郎の行方を探すべきだろう。
あれからどれ程の時間が経過したかわからないが、それでもせめて亡骸は地に帰したい。
遅れてこちらに戻って来た将臣に、あの世界のその後を教えてもらったが、九郎の行方は彼も知らなかった。
心が決まれば後は帰る手立てだけだった。

龍に声が届くのは神子だけ。
時空を越えるには望美の協力が必要で、密かに一人帰るのが無理ならば頼み込むしかない。
けれどもやはり彼女は素直に頷いてはくれず、自分を一緒に連れていくことを条件にされてしまった。
甘言も偽りももう通じないと、頑なに見つめる眼差しの強さに苦笑がこぼれる。
逃がすことは無理だとわかっていたのに、それでも望美にはこの平和な世界にいて欲しいと思った。
けれども、彼女は自分の幸せに弁慶が必要だと言う。
薬師の弁慶を求めるものはいる。
軍師の弁慶を求めるものはいる。
けれどもただ弁慶の存在を求められることがこんなにも甘美であることを、胸の奥に刻まれてはもう手放すことなど出来なかった。

「決して僕の傍を離れない。無茶をしない……と約束できますか?」

望みを叶えるには無謀であることは出来ないと結ぶ約束を、信じられたのは相手が彼女だから。
だからはっきり頷き、覚悟を宿した翡翠の輝きに、その手を取って共に時空を渡った。
果たして、時間はあの時からほとんど経過しておらず、龍神の神子を慈しむ深さを実感しながら、九郎の後を追った。
ほどなくして合流出来た彼に、今後の生き方を示すと、意外なほどあっさり提案に首肯した。
それは自身の存在が新たな戦乱を生むと、否応なく今回の件で知ったからだろう。
再び戻った彼女の世界で、九郎と弁慶は生きることになった。
今までの全てを失って、手探りで生きていく日々に戸惑うことは多い。
けれども意外にも九郎は前向きで、この新しい生を真っ直ぐ生きることを決めていた。
そんな姿に安堵すると、傍らの存在が寄り添い微笑む。
すんなりその身を委ねてくれる彼女が、どれ程得難く尊いものか知っているから、抱き寄せることをつい躊躇ってしまう。

「あまりにも不可思議で、実は今でも疑ってるんです。これがいつか消えてしまう幻なんじゃないか……と」

自分の幸せなど考えたこともなかった。
だからこのように平穏に身を置くことに違和感が拭えなくて、けれどもそんな弁慶にいいのだと、寄り添いぬくもりで伝えてくれる。
平家との決戦後、一度は手放した。
けれども、もうそれは叶わない。
この幸せを失いたくないと思うから。

「これからは、ずっと、幸せにすると約束します」

あの日違えた約束を今度こそ叶えよう。彼女の幸せに弁慶が必要だと言ってくれたから。
肩を抱き寄せ、誓いを口にすると、はいと微笑んでくれる望美の頬を撫でて、淡く色づくのを見つめると、そっと伏せられる睫毛を追って影を重ねた。

20220211
Index Menu