僕が恋に気づくまで

弁望114

「邪魔するよ」
「ヒノエくん?」

患者が一段落したところに、ひょいと現れた赤髪の男は、共に旅した仲間であり身内でもあり、望美が入口へ駆け寄る。

「久しぶりだね。いつ京に来たの?」
「相変わらず姫君は可愛いね。つい二日前かな」
「待ってて。今、お茶を淹れるから。弁慶さんも座ってください」

ヒノエを招き入れつつ弁慶に声をかけると、厨へ茶の用意をしに行った望美に、仕方なしに甥に向き直る。

「ヒノエ。望美さんを口説くのはやめなさい」
「あんたにそんなことを言う権利があるのかよ」
「僕は望美さんの恋人ですよ」
「よく言うよ。惚れてもいないくせに」

ザックリと容赦のない言葉に押し黙ると、それを肯定と受け取ったかさらに続く。

「あの時、あんたは望美に惚れてなかった。にも関わらずどんな気まぐれなんだか、あいつを引き留めた」
「…………」

鋭いのは腐っても別当といったところか。苦々しさを笑みで隠すと、ヒノエが嫌そうに眉をしかめた。

「望美もどうしてあんたなんかに引っ掛かったんだか……」
「彼女に確かめてみたらどうです?」
「冗談じゃない。馬に蹴られるのはごめんだね」

売り言葉に買い言葉で返せば、思いがけない返答に目を見開く。

「俺が嫌いなのはあんたのそういうとこだよ。頭がいいくせに自分の感情には疎い。これで惚れてなければ熊野にかっさらったんだけどね」
「ヒノエ?」
「無意識に牽制してくるぐらいなら、自分の感情を理解するんだね。今のあんたにどうこう言われて納得する気はないぜ」

直接には言わない言葉に、けれども意味することは分かるから沈黙した。

「ヒノエくんも弁慶さんも何で立ったままなんですか。ほら、向こうに座って」
「貸してごらん。姫君に重いものは持たせられないからね」
「重いものって、湯飲みと土瓶だけだよ?」
「持ちたいと言うのだから任せればいいですよ。さあ、行きましょうか」
「何さらりと姫君の肩を抱いてんだよ」

キッと向けられた視線を流して促せば、行軍で共に過ごした日々の中でこうしたやり取りにも慣れてしまったのだろう、望美は苦笑しながら奥へと移動する。

「また比叡からくすねてきたのかい?」
「失礼ですね。自分で作ったものですよ。種はいただきましたが」

唐から持ち帰られた茶は貴重なもので、天皇や有力僧侶、貴族階級にしか口に出来ないものだったが、高価故にそれほど広まらず廃れかけていたので、それならと望美も好んでいたことから分けてもらっていた。

「え、お茶って高価なものだったんですか? いつもあるから全然気づかなかった……」
「姫君が好きなら今度土産に持ってこようか?」
「ううん、大丈夫。弁慶さん、今度私もお茶作り協力しますね」
「ふふ、お願いしますね」

高価なものと聞いて自分で作る方を選ぶのが望美らしく微笑むと、ヒノエが懐から包みを取り出す。

「ならこっちはどうだい?」
「わっ嬉しい! やっぱりお茶には甘いお菓子だよね」
「ふふ、花より団子は相変わらずだね」
「それ、失礼だよ」

頬を膨らませながらも久しぶりの菓子に喜ぶ望美に、ヒノエが蕩けるような目を向ける。
甥が彼女に向けるものは仲間へのものではない。
そう分かっているが、譲る気はさらさらなかった。
時を見誤ったのも、行動しなかったのもヒノエ自身だ。

「望美さん」

声をかけると、振り返った彼女の口元に指を伸ばす。

「ついてましたよ」
「す、すみません」

これ見よがしにパクリと欠片を食めば、パッと赤らんだ顔と、嫌そうに眉がつり上げられた顔が目に入って、ふふっと笑みながら思う。
確かに自分は望美に恋はしていなかった。
その人柄を好ましいと思っても、抱く思いは恋情ではない。
だからなぜ引き留めたのかと問われると、即座には答えられなかった。
君を放したくない。
あの時、そう思った。
何故だか自分でも分からず、それでも今引き留めなければ望美は帰ってしまうと、終わった瞬間引き留める策を考え始めていた。

好きだと言ったのはそれが一番分かりやすく、引き留めるには合理的な理由だったからだ。
そも恋情というものが自分には分からなかった。
今まで恋をしたことはなく、両親を見ていていいものだと思えなかったし、自分を取り巻く優しいとはいえない環境から余計にそんなことに気を取られる気にはなれなかった。
自分の容姿が女性に好まれるものと分かってからは色事を利用もしたが、向けられる思いを真に理解することはなかったし、理解したいとも思わなかった。
そんな自分が女性である望美と共にいたいと望むこと事態がおかしなことだった。

くるくると表情が変わるのも、些事に心揺れるのも自分にはないもので、完全には切り捨てられないところは九郎に通じるだろう。
それを好ましく思うし、容姿も可愛い方だろう。
貴族の姫のように驕るところのないのも良い。
望美の良いところを並べればいくらでも可能で、そう嫌う人間などないだろう。
心の内をさらしてもいいと、そう思えた存在。
天界で思ったことを思い出すと、飛び出しかける感情に気づく。

「弁慶さん? どうかしましたか?」
「あいつのことなんて放っておいて俺と出かけないかい? たまには町を歩くのも悪くないだろ?」
「何でもありませんよ。薬が減ってきていたことを思い出したんです」
「え、それは大変じゃないですか。取りに行きますか?」
「ええ、明日にでも。君はどうしますか?」
「もちろん行きますよ。薬草の種類を覚えたいですし」
「君は研究熱心ですね」
「俺のこと忘れてないか?」

進む会話にヒノエが口を挟むと、あっと望美が慌てる。

「ごめんね、ヒノエくん。でも今日はまた患者さんが来るかもしれないしやめておくね」
「ちぇ。お前は小間使いじゃないだろうに」
「私が手伝いたいの」

望美に言い切られてはそれ以上誘うのも難しいのだろう。
茶を飲み干すと、ヒノエが立ち上がる。

「なら今度は姫君がここに来る前に誘うよ」
「もう行くの?」
「ああ。やることは山とあるからね」
「そっか……気をつけてね」
「ーーああ、望美」
「ん?」

呼びかけに顔を上げた望美と重なる影。
ざわりと蠢く感情に、身を離したヒノエが口元をつりあげると、名残惜しげに手にした髪を解く。

「じゃあね、姫君」

立ち去って行くのを険しい顔で見送ると、望美が振り返る。

「ヒノエに何を言われたんですか?」
「え? えと、いつでも熊野においでって」
「他にされたことは?」
「何もないです」
「本当ですか? あんなに近寄らせて何もなかったと?」

一瞬口づけたのかと思ったが、望美の反応からそれはないと分かってはいた。
ただの牽制ならいいが(それでも面白くはないが)何かしたのなら次は出入りを禁じようか。

「これは?」
「え? あ、いつの間に」
「……烏と連絡を取る方法ですか。全く油断も隙もありませんね」

胸元に折り畳まれた紙に目を通して眉をしかめると望美を見る。

「必要ですか?」
「弁慶さんは連絡の取り方を知ってるんですよね?」
「ええ」
「なら用事がある時は弁慶さんにお願いします」

一応了承を得ると、サッと囲炉裏の火にくべたので望美が目を丸くした。
自分でも狭量かと思うが、望美に連絡手段を与えたことも、胸元に差し入れたことも腹立たしかった。

「あまりヒノエに気を許してはいけませんよ」
「でもヒノエくんって弁慶さんの甥でしたよね?」
「ええ、不本意ですが」
「不本意って」
「君には僕だけを見ていてほしいんです。ダメですか?」
「う……ズルいですよ」
「望美さん?」
「わかりました! 今度は気をつけます」
「ええ、お願いします」

言質を取るともう、と顔を赤らめる望美に微笑んで。

『無意識に牽制してくるぐらいなら、自分の感情を理解するんだね』

思い出された甥の言葉に内心で唇を噛むと、軽い昼餉の支度に向かった望美を追った。

20201023
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