平家の神子

弁慶後日談、謎

一つだけ、わからないことがある。

待ち合わせ場所の喫茶店に先に到着した弁慶は、コーヒーを注文すると窓の外へと視線を移した。 外はよく晴れていて、屋内にいるのがもったいないほどの陽気だ。

「望美さんの笑顔が目に浮かびますね」

晴れていると気分が明るくなっていいですよね、と前に笑って話していた彼女の言葉を思い出して、ふっと口元が緩む。
和議の後、弁慶は望美に導かれるまま時空を渡り、彼女の生まれ育った世界へやってきた。 龍神の力で与えられた新たな戸籍は、初めから弁慶がこの世界に存在する人間だと、真実を修正していた。

争いのない地。
あの世界とはかけ離れた穏やかな世界。
弁慶の望んだ、戦のない世がここにはあった。

「ごめんなさい、待たせちゃって!」
「いいえ。僕も着いたばかりですから」

息の乱れている様から慌てて駆けてきた姿が想像できて、弁慶は微笑み望美を席へと促す。

「ここのケーキ、美味しいんですよね。どれにしようかな?」
「ふふ、どれでもお好きなものをどうぞ」
「弁慶さんは食べないんですか?」
「よければ君のを少し味見させてください」
「はい。それならチョコケーキと……こっちのタルトにしようかな」

メニューをしばし眺めた後、珈琲を運んできた店員に紅茶と共にケーキを頼んだ望美は、ようやく弁慶と向き合った。

「それ、参考書ですか?」
「はい。このまま無職というわけにもいきませんからね」

龍神は戸籍はくれたけれども、さすがに知識のないものに職は用意できなかったのだろう。
一月ほどで大まかにこの世界のことを学んだ弁慶は、次のステップとして生活を成り立たせる準備を始めた。

「弁慶さん、本当にあっさり馴染みましたよね」
「そうでもありませんよ。これでも結構戸惑っていたんです」

水を得ることさえ水道をひねるという方法をとるこの世界は何もかもが違い、さすがの弁慶も差異を理解するのに苦労した。 それでも慣れれば便利なもので、今では視力の低下という知識欲のもたらした弊害をも補う術を手に入れていた。

「眼鏡はどうですか?」
「便利なものですね。今まで見えにくかったものもよく見えます。ただ、残念なこともありますが……」
「残念なこと? わっ……! べ、弁慶さん?」
「以前ならば目が悪いことを口実に出来ましたが、今はそういうわけにはいかないでしょう?」

慌てる望美から乗り出していた身を戻すと、にこりと微笑んだ。
そうして珈琲を口にしながら、弁慶はそっと望美の様子を伺い見る。
幸せそうにケーキを頬張る姿はあどけない少女そのままで、あの世界での彼女は幻だったのではと疑うほどだった。

「君はどうして和議の道を選んだのですか?」
「え?」
「先見の力があったのならば三草山や一ノ谷のように、先の戦も見通せたのではないですか?」
「……先見の力なんかじゃないです。この世界には弁慶さんたちとは違うけれど源氏と平家の争いが、昔起こったこととして記されていたから、私たちはそれを参考に策を練ってただけなんです」

確かにこの世界に来た時、弁慶は自分たちと同じ名をもつ者たちが、この世界の過去に存在していたことを知り、その歴史を図書館で調べた。 彼らのたどった運命は驚くほど酷似していて、望美が過去に飛ばされたのではと、初めに疑ったというのも頷けた。

「それでも、あのまま戦況が進めば平家は勝利を収めることができたと思いますよ」
「……私も、最初は平家が滅ぼされないようにってただ必死に戦ってました」

戦にあるのは勝ちと負け。
けれども戦っている人間には負けて終わりではない。
悲しみは憎しみを生み、憎しみが新たな戦いを引き起こす。
守るために命を奪い、失われた命の嘆きが新たな悲しみを作り出すのだから。

「私は源氏が憎くて戦ってたわけじゃないんです。だから平家を守れるなら……より悲しみを生み出す方法じゃなく、みんなが幸せになれる道を選びたかったんです」
「……それが龍神に選ばれる神子の資質なのでしょうね」

個々ではなく広く。
傲慢ともいえるそれは、しかし願い、望美が自ら切り拓いたからこそ成しえたものだった。

「それでは……どうして君は僕をこの世界に連れてきたのですか?」
「え?」
「あの世界で役目を終えて帰るなら、僕を共に連れ帰る必要はなかったはずです」
「弁慶さんは来るの嫌でした?」
「いいえ」

きょとんと見返す翡翠の瞳には、打算めいたものは見えない。
龍神の神子の憐れみなのかとも思ったが、そうでもないらしい。

「あの時、あのままあの世界に残っていたら弁慶さんは……生きてはいなかったですよね」
「そうでしょうね」

源氏を裏切り、また平家をも裏切った。
裏切り者の末路は考えるまでもなかった。

「弁慶さんが死んじゃうのは嫌だったんです」
「君は優しい人ですね」
「違うんです。そういうんじゃなくて……私は……」

この気持ちをどう表現すればいいのかわからず、望美はもどかしげに唇を噛んだ。

「弁慶さんが平家に来てくれたのは、私とは別の目的があるから。それはわかってました」
「ええ」

戦をなくしたい――そう告げて、望美へ協力を求めた弁慶。
望美が源氏への足がかりを得ようとしているように、彼もまた平家への足がかりにしようとしていることはわかっていた。 けれども弁慶が源氏を離れ平家に与することを断りはせず、そのまま平家へ受け入れた。

「私、最初は弁慶さんは目的のためなら手段を選ばない非情な人だと思ってました」
「その通りだと思いますよ」
「……ううん。弁慶さんが本当に非情な人なら、五条で貧しい町の人達を無償で看るなんてしないと思います」
「京の動向を探るための偽りかもしれません」
「違いますよ。私も『弁慶先生』を信じてます」

町の人が向けていた信頼を、望美も同じように持てるから。

「……僕は君の思うような人間ではありません」

己の望みをかなえるために望美に近づき利用し、最後の最後で裏切った。

「僕は己の驕りから応龍を滅し、京を廃らせた。『罪人』なんです」
「弁慶さんが罪人なら、私だってそうです」

分からなくて、ただ流されるままに進み、一度平家を滅ぼした。
ずっと望美を助けてくれていた幼馴染を死なせ、一人だけ時空を超えて逃げて。そんな運命を認められなくて、白龍から与えられた逆鱗の時空を渡る力を利用して自分の望む運命を勝手に紡ぎ直したのだから。

「それでも、君は平家を救うと決めたのでしょう?」
「――はい」

龍神に選ばれただけのただの人間であることを承知で、それでも望美は望み、平家を滅亡の運命から救うと決めたのだ。

「憐れみだとしても、僕は君に感謝しています」

望美のおかげで黒龍を開放し、弁慶の切願だった応龍の加護を京に取り戻せたのだから。

「憐れみなんかじゃ……」
「……すみません。僕は不安だったようですね」
「え?」

この世界に繋ぎ止めるもの……足場となるものを、きっと無意識に求めていたのだろう。 戸籍が存在しようと所詮それは偽りで、弁慶は異なる世界から来た異邦人でしかないのだから。

「私じゃ不安をぬぐえませんか?」
「望美さん?」
「異世界に来ることがどれだけ不安かは、私にもわかります。でも私には将臣くんがいてくれたから、だからなんとか頑張れたんです」

一人だったら何もかも違うあの世界でずっと不安を抱えていただろう。

「だから弁慶さん、もっと私を頼ってください。あ、といっても私もまだ学生なので、お金の融通とかはちょっと難しいんですけど」
「ありがとうございます」

ふふっと微笑んでくれたのにほっとして、望美はタルトを一切れ弁慶へと差し出す。

「わからないことがあるなら教えます。それでもわからないことは一緒に調べましょう」
「そうですね。まずはこのタルトの味から知りましょう」
「どうですか?」
「美味しいですよ。君の手から食べさせてもらったのですから特に、ね」
「あ、ごめんなさい! つい将臣くんたちと同じようにしちゃいました」
「出来ればこれからも彼らと同じようにお願いします」

弁慶があの世界で見知っていたよりも数年幼くなった外見の少女に微笑んで。
この関係を変えていく楽しみを見つける。
弁慶が望美に抱く想いは、まだ恋と呼ぶには淡いものだろう。それは望美も同様。
けれども、一人で罪を抱え、胸の内に思いを隠し、己の望むものを得るために戦い続けていた弁慶を知った時、望美の中で彼に対する想いは変わっていった。

同情でもない。同調でもない。
まだまだ不確かな、それでも互いに芽生えた想いを胸に抱いて。
また次の約束を交わすことを楽しみにするのだった。
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